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■生の最終段階のあり方について
厚生労働省は、「人生の最終段階における医療・ケアの普及・啓発の在り方に関する報告書」を改定した(平成30年3月)。内容の重点は、人生の終わり方について家族・親族が本人の意思を尊重しながら本人との話し合い(文書化も含めて)を継続していこうというものである。本人の価値観・人生観に基づいて、その生を安心して終わらせることができるように、全世代で考えていこうというものだ。ただ、「生命を短縮させる意図を持つ安楽死」(積極的安楽死)についてはこの指針から除かれた。

いったいどれだけの人が、生の最終段階で安楽に死んでいけるのだろうか。安楽とは、文字通り「安らかで楽しく幸せ」な心でいることである。死にゆく人の約8割の人が家族に看取られ、住み慣れた自宅で死んでいきたいと思っている。しかし、自宅で最期を迎えられる人は1割ちょっとにすぎない(上掲ガイドライン調査より)。

■動物が死期を迎える時
本当に安楽な死とは、自然死のことだと思う。卑近な例であるが、わがペットの死についてあげてみたい。動物は寿命が尽きる時、本当に安らかな気持ちで死んでいくという。それは、まさに天に召されるという感じだろう。「ペットと人間と一緒にするな」と思うなかれ。それなりに往生だったと思うし、人としての死に方(生き方)についても考えさせられるものである。

動物は死期が訪れると、水も食べ物も口にしなくなる。当然、排泄もない。飼い主はそれで、ペットの自然死が近いことを知る。それは1週間も2週間も続く。ほとんど動かず、じっとしている。あたかも、自ら死を呼び寄せているかのようだ。生の終末段階での治療は、ペットにはかえって苦痛で迷惑でしかない。安楽な気持ちで静かに死を迎えつつあるのに、妨げられるのだから。

動かないといっても、体を横たえて安らいでいるわけではない。かなりの時間、体を起こして姿勢を保っている。しかも眼を丸く見開いて。小動物は死ぬ間際でも、休んでいると見えて、襲い掛かる敵にひるんだ姿を見せまいとする自己防衛の本能があるのだろう。もちろんこの例は、病むことなく天寿を全うして死ぬ場合であって、病気やけがで死ぬ時はこのようにはいかない。痛みや苦しみに耐えながら、床に這いつくばって、もがきながら死んでいくペットも多いだろう。

■命というものへの感謝の心
ここで思い至るのは、われわれ人間の死に方も同じということだ。病気やけがに伏しながら最期の時を迎えるのは、どれほどつらいことか。動物は寿命が尽きるまで、毅然としつつも意識は安らいでいる。何日も飲まず食べずに、いのちの終末を迎えようとしている。体は、体毛で覆われて見た目にはわからないが、触れてみると、元気な時の何分の一かの小ささで、ひらひらの重さになっている。肉は削げ、脂肪は落ち、内臓はほとんどしぼみ、その機能を終わらせようとしているのがわかる。

ペットは飼い主の姿を、偲ぶようにじっと見つめている。おそらくその眼には、飼い主の顔もほとんど見えていないであろうに。もう、視力さえもほとんど失われているのかもしれない。そして力をふり絞るように立ち、気づかないうちに昨日はそこ、今日はここ、といつの間にいろんな所に移動してたたずんでいる。残された力で、ペットなりの「思い出」の場所を懐かしむように、そして主人の感触を確かめるように移り歩いているのだ。

四肢で立っているといっても、体は45度斜めにかしぎ、微妙に小刻みに揺れている。そしてある日、飼い主の家族が全員そろっている時を見て、安心して逝くのである。このような死に方は、幸せである。ペットとしても、人間としても。「自分も、かくありたい」と思う。手で抱えられるほどの小さな動物でありながら、畏敬の念を抱く。それはまた、ともにいた生に感謝の気持ちさえ抱かせる。単に、ペットの死を悲しむというものではない。何か、「いのち」というものを感じさせるのである。

■最後に考える最も重要なこと
われわれ人間は、特に高齢となって死へと一歩ずつ向かうようになると、言うまでもなく衰退していく。動物のように弱って、そのまま死に至れれば問題はない。だが人間は、病気になれば治療され、老いれば介護される。そして必ず、人を介させる。人は一人ではなかなか死ねないようになっている。それは、一人では生きていけないと同じ意味である。家族や近親の者が医者に診せ、薬を飲ませ、手術させ、看病する。人の場合は死ぬまで、周りの者が放っておくことができないようになっている。心情的にも、医療的にも、人道的にも、法律的にも。生きている者は生きている限り、死ぬまで生かされることになっている、今の日本では。

病の床に臥せると、本人が苦しんでいるか喜んでいるか、あるいは感謝しているか、はたからは分からない。実際には、床に臥しながらも、できるだけ生きたい、死にたくないと思う人も多いだろう。それだから、生かされるのである。ペットを引き合いに、人間も自由に自然に死なせてやればいい、と安易に言うつもりはない。ただ、自然に死ぬことができれば、今ほど医療費や介護費、生活費などかからないのも事実である。だが、誰もそんな観点から死を考えていない。第一、身内が死ぬか生きるかのきわに、お金がいくらかかるか、遺産はどれだけかなどと口にするだけで、不謹慎とされ人間性を疑われることになる。

人は病気になりながらも生き永らえるための手段として、また命運尽きて死亡した時に残された者にお金を残すために、保険に入ったり、貯蓄をしている。それは自分が生き永らえるためでもあり、家族に負担を掛けないためでもある。医療関係者以外の一般人は「人生の最終段階について考える際に重要なこと」として、第一に「家族の負担にならないこと」(73.3%)を挙げている。次にくるのが自分のことで、「体や心が苦痛なく過ごせること」(57.1%)、「不安がないこと」(55.2%)、「自分らしくいられること」(46.6%)と続く。その後に「家族らとの十分な時間を過ごせること」(41.6%)となる。(同ガイドライン調査より)。

■安楽に最終段階を終えたい
死が近くなって、そのまま衰弱して死ねればいい。ペットの自然死の対局にあるのが殺処分である。あるいは寿命半ばでの病死や事故死であろう。人間もまた、病まずに寿命が尽きての自然死であれば死への恐れはなくなり、したがって老いへの不安もなくなる。ところが家族は、患っていても寿命が尽きるまで生かせてあげたいと思うものだ。この生の終末での医療・ケアは、本人にとっては重荷にもなりかねない。それは、不治への絶望、苦痛、孤独、自負の喪失などで本人は生きる望みがなくなるのに生かされること、そして家族が抱える経済的負担とケア的負担への思いからである。

このまま身体が動かなくなり、死ぬまで治る見込みもなく、死の床に横たわる。それを看取っている家族。それはありがたくはあるが、自分自身への矜持がある者ほど、安寧もなくいつまでも生き続けるのは、精神的にも金銭的にも過酷なものである。

「もう、これでいい」、本人がそう思ってから、食も水も受け入れず数日で自然に衰弱死できたら・・・、というわけには今の時代はまだいかない。まして、死ぬまで治らない病に伏して生きなければならないとなると、自然死や安楽死のことが、これからはもっとつきまとってくるかもしれない。

【参考記事】
■永遠に採用結果が通知されないという「神話」(野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー)
http://sharescafe.net/53190923-20180327.html
■サラリーマン現役引退後の働き方はどこまでバラ色か (野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー)
https://www.tfics.jp/
■鑑定番組に見る骨董収集家と投資家のこころ (野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー)http://sharescafe.net/52864156-20180130.html
■今さら聞けない退職金 「今」もらうか、「後」でもらうか (野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー)
http://sharescafe.net/52674052-20171226.html
■ノーベル経済学者に学ぶ年金のもらい方 (野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー)
http://sharescafe.net/52512579-20171126.html

野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー TFICS(ティーフィクス)代表




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