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今年10月から最低賃金が全国一斉に引き上げられた。東京都では時給が1,013円から1,041円になり、全国平均では902円が930円になった。コロナ禍の不況のなかではあるが年率3%程度を目途として名目GDP成長率にも配慮しつつ引き上げていくという政府の方針によるものだろう。

コロナ禍でマイナス成長を続ける日本において、業績不振の業界で苦しむ企業の経営者には、最低賃金の引き上げなどとんでもない、雇用を守るだけでも精一杯だと考える方もいるだろう。賃金引き上げが人員削減につながる可能性もある。

とはいえ、OECDの調査では日本の平均賃金は欧米主要国を下まわって韓国にも抜かれている。統計の取り方もあるが2019年の平均賃金(年収)は韓国が4万2285ドル、日本が3万8617ドルとなっている。

衆議院選挙で今すぐ賃上げを、と各党が掲げるほど切実な問題になってきた。筆者は賃金を上げるべき、特に最低賃金は大幅に引き上げるべきと強く考えているが、そのためには「賃上げができる状況」を作り出すことが最も重要だ。

中小企業の雇用と賃金の現実に直面する社会保険労務士として、最低賃金の引き上げについて、労働分配率と労働生産性の視点から考えてみたい。

■労働分配率:粗利益の何%が従業員の人件費に振り向けられたか
賃上げの是非を論じる際、必ず出てくる数字が「労働分配率」と「労働生産性」の関係である。これは決して難しい話ではなく「会社の利益から従業員にどれくらい分配されているか」、「その賃金は高いのか安いか」の関係を述べているに過ぎない。

まずは簡単に労働分配率の考え方を説明したい。

会社の売上から仕入を差し引いた金額を粗利益(付加価値額)と呼ぶ。7,000万円で仕入れた商品を1億円で販売すると、粗利益は3,000万円。このとき、会社の従業員の人件費が総額2,400万円なら、3,000万円の粗利益を得るために2,400万円の人件費がかかったことになる。するとこの会社の労働分配率は80%となり以下のように計算される。

人件費(2,400万円) ÷ 粗利益(3,000万円) × 100=80%

労働分配率は適正な水準に保つことが重要で、高すぎても低すぎても望ましくない。労働分配率が高ければ他社より給与は高くなるが、人件費が増えると、設備投資に十分な資金を振り向けられなくなるからだ。

実際の労働分配率は企業規模によって大きく異なり、近年の大企業であれば約50%、中小企業であれば約70~75%である。中小企業より大企業の労働分配率が低いのは、大企業は巨額の設備投資が必要なため、粗利益の相当な部分を設備費に振り向けていることによる。

■労働生産性:従業員1人当たりの粗利益
労働生産性とは従業員1人あたりの粗利益額のことであり「会社の稼ぐ力」を表す指標になる。

同じ3,000万円の粗利益があるA社とB社であれば、従業員が6人のA社であれば1人当たりの粗利益額は500万円、従業員が5人のB社が600万円になる。

従業員1人あたりの 労働生産性が高いのは6人で3,000万円の粗利益を得るA社より、5人で3,000万円の粗利益を得るB社であることはいうまでもない。

そして、A社もB社も粗利益額の80%を従業員に分配するなら、A社の1人当たり人件費は400万円、B社の1人あたり人件費は480万円になる。

人件費(賃金のほか法定福利費や福利厚生費なども含む)と賃金額はほぼ比例するので、A社とB社が同じ労働分配率であれば、従業員1人あたりの労働生産性が高いB社のほうが賃金が高くなるのだ。

この説明は従業員1人あたりの 労働生産性であり、厳密に言えば国際比較で使う労働生産性とは計算方法が異なる。しかし、世界の主要国の中で日本の就業者1人当たりの労働生産性が低いといわれる理由は、日本の従業員の賃金が世界の主要国に比べて低いからということにほかならない。

■理想的な労働生産性と労働分配率は
そもそも、労働生産性を上げるには賃金を上げればよいのだが、賃金を上げるには十分な額の粗利益が必要になる。

高い労働生産性(高い給料)の原資は高い粗利益額である。同じ粗利益額であれば、労働分配率が高ければ高いほど労働生産性、つまり賃金も高くなる。

労働分配率が高ければ高いほどいいというわけではない。たいていの会社では人件費のほかに事務所家賃、光熱費、広告宣伝費もかかってくる。粗利益のすべてを従業員に分配するわけにもいかないので、中小企業であれば理想的な労働分配率は50~60%であろう。

2018年の中小企業の労働生産性は非製造業で1人あたり年間543万円であるが(財務省資料「法人企業統計調査年報」)、1人あたり800~1,000万円あるのが理想的である。

労働分配率は企業規模や業態によって大きく異なる。労働分配率がどうなったかは企業規模ごとに、過去と現在を比較するのが最もわかりやすい。

2011年と2018年の企業規模別の労働分配率を比較すると、資本金10億円以上の大企業で61.6%から51.3%へ、資本金1千万円以上10億円未満の中規模企業で79.1%から76.0%へ、資本金1千万円未満の小規模企業で81.7%から71.5%と軒並み3~10ポイント以上も下がっている(中小企業庁「中小企業白書」)。

景気拡大期においては、企業の粗利益が増加し、人件費を上回ることにより労働分配率は低下する。逆に景気後退期には、粗利益が低下しても企業は雇用を維持して賃金引き下げにくいことから労働分配率は上昇する傾向にある。

アベノミクス下ではおおむね好景気で、会社は儲けを拡大した。しかし、儲けは従業員に十分には分配されず、賃金がそれほど上がらなかった。これが、「労働分配率が下がり続けた」と言われる理由である。

そこで、「最低賃金を上げて従業員に分配すればいい」という主張が出てくるが、決してそのような簡単な話ではない。

■最低賃金を1,500円に引き上げられるとどうなるか
前述の通り、2018年の企業規模別の労働分配率は中規模企業で76.0%、小規模企業で71.5%だった。ここで全国平均930円の最低賃金を一挙に1.6倍以上引き上げて1,500円にしたら労働分配率は100%を超える。会社の粗利益額より支払う給料の額のほうが高くなるので、会社の経営が成り立たなくなることは明白だ。

賃金上昇分を価格に転嫁できれば労働分配率は変わらない。実際は値上げを簡単にできるわけでもないため、ここまで急激に引き上げることになれば、人員を削減する以外に方法はない。短期的には失業者の増加は避けられなくなる。最低賃金の引き上げが少しずつ行われる理由もこのあたりにある。

■伸び悩む中小企業の労働生産性
日本の企業はほとんどが中小企業だ。日本の企業数359万社のうち99.7%が資本金1億円未満の中小企業である。その中小企業の労働生産性は伸び悩んでいる。

東日本大震災直後の2011年と、コロナ前の2018年における中小企業1人当たりの労働生産性は製造業で524万円から554万円、非製造業で534万円から543万円となっている。大きな落ち込みはないものの、長らく横ばい傾向が続いている(財務省「法人企業統計調査年報」)。

緩やかであっても伸びているから問題ないと思われるかもしれない。しかし海外の水準からみれば日本は低い水準だ。日本の就業者1人当たり労働生産性は、OECD加盟37カ国中26位。1970年以降で最も低い順位だ。

日本の企業数の99.7%を占める中小企業の労働分配率は70%以上で、下がり続けているとはいえすでに十分高い。そのため大幅な賃上げの余地が少ない。これが「労働生産性が低く賃金が安い」というコロナ禍前からの日本の実態なのだ。

つまりは冒頭で述べた通り、賃金を上げるには賃上げができる状況作り出す必要がある、ということだ。

■資本装備率を上げて労働生産性を向上させる
中小企業の1人当たりの労働生産性が大企業より低いのは、大企業より資本装備率が低いからだといわれている。

効率的に付加価値を生み出し、生産性を向上させるために、機械や設備への投資は有効な手段の一つであり、こうした機械や設備への投資の程度を表すのが「資本装備率」である。これが高ければ高いほど資本集約的となる。反対に、低くなるほど労働集約的となる。

製造業や製造業に近いサービス業であれば資本装備率を上げて1人当たりの労働生産性を向上させることはできるだろう。しかし、飲食、宿泊、販売といったサービス業では、今まで以上に仕事を効率化してもコストダウンできる余地が少ない。

例えば、ラーメン店や喫茶店であれば、従業員の働き方や仕事のやり方を変えてコスト削減するのが難しい。こうした業態では資本装備率を上げて労働生産性を向上させることは現実的でない。国の助成金を活用しながら賃上げに対応していくしかないだろう。

■日本の会社の非効率さを挙げると
筆者は、大企業に勤務していたころ経営者として香港からシンガポール、タイ、マレーシアにかけて販売事業を立ち上げた経験がある。会社を退職し社会保険労務士になって最も驚いたのは、会社の間接部門の業務に過剰な時間をかけていることである。

諸外国と比較し、日本では一円の儲けにもならないことに貴重な人材をつぎ込んでいる事例があまりにも多い。

人事部門に限った話ではないが、一例を挙げればこれから年末にかけて憂鬱な年末調整の時期がやってくる。経理担当や給与担当者であれば実感としてわかると思うが、従業員全員に用紙を配り、回収し、間違いを修正し、保険料や住宅ローンの証明書の金額をいちいち紙に転記する。

1月から12月までの毎月の給与を集計し、正しい税額を計算しなおしたうえ1月末までの給料支払日に税金分を返還または徴収する。そして住民税の計算のために、ひとりひとりについて、給与明細書の居住地の市区町村宛てにいちいち郵送しなければならない。

年末調整の一連の作業はこれで終わるわけではない。5月になれば従業員が住む市区町村から6月以降に控除される住民税の金額が会社に通知される。通知された金額に合わせて6月からの給与控除額の金額をすべて入れなおす。

住民税額を通知してこない市区町村には、わざわざ会社から電話して確認する。従業員が確定申告をやり直したりすると、毎月徴収額を変更され、これに応じて徴収額を入れなおす。こうした作業が延々と続く。

万一計算間違いがわかったりすると従業員や上司から大クレームを浴び、その徒労感も大きい。重要な仕事ではあるものの利益につながる業務とは言えない。むしろ営業や製造等に従事する現場の社員にも負担をかけて生産性を落としている。

■社員がクリエイティブに働かないと会社も儲からない
会社は、利益の最大化を目的に運営している。その目的のために最短経路を取るべきだ。そのためには社員にクリエイティブに働いてもらう必要がある。

実は、従業員30人の会社で年末調整に給与担当者が50時間も残業するなら、専門家の税理士に一人あたり1,000円も払えば、年末調整の諸作業をすべて丸投げできてしまう。給与計算も一人ひと月1,000円で請け負う税理士、社会保険労務士、給与計算専門会社など見つけることは難しくない。

経理部門であれば「製造原価」を把握しなければならないが、製造業でない限りすべて自社でやる必要は全くない。サービス業であれば、自社でやる必要があることは売上と支払いの管理だけである。

最も簡単な方法は、社内はキャッシュレスにして、売上金の入金管理と請求書の支払いだけ自社でやり、毎月の銀行預金通帳のコピーと請求書、領収書を全部税理士に渡してしまい、記帳から税務申告まですべて税理士に任せてしまうことである。

月次の経理状況を知りたければ、Zoom等のオンラインで毎月30分程度税理士の説明を受ければ十分なはずだ。

こうしたことを説明すると、それでは外注して給与計算や試算表を作成する担当者をクビにしろということか?と反論されるがそうではない。営業事務の支援など儲けに直結するいわば「クリエイティブに働いてもらえる」別の部門で活躍してもらえばいい。

これは総務、人事、経理といった間接部門に限ったことではない。単なる作業にはお金をかけず、寄り道を減らす。例えば外注化、IT化などである。そうすれば会社の目的に近づく手段(仕事として何をやるべきか)が明確化され、その会社の目的に沿う仕事をしたい人が集まり生産性向上に直結する。

■会社がより多く儲けるための賃上げとは
政府は最低賃金について全国加重平均が1,000円になることを目指している。今年10月の全国加重平均は930円なので、今後も毎年3%上昇すれば3年後の2024年10月には1,016円になるはずで、これはほぼ確定した将来だろう。

この状況に対応するには、利益を生まない作業にはお金をかけず売上を拡大し、余裕資金を賃上げの原資にするのである。

中小企業が同業他社と競って生き残るためには、同業他社より少しでも高い賃金を提示して、より優秀な人材を確保する経営体力が必要になる。

少しでも賃上げの余力を蓄えて生き残る準備を始めることこそがコロナ禍が落ち着いた今、経営者に最も必要なことではないか。

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河野創 青山人事労務代表/社会保険労務士

【プロフィール】
MBAを持つ社会保険労務士。大手企業で社内起業し自らも14年間海外子会社を経営。中小企業社長の気持ちや悩みがわかるコンサルタント。海外人事労務のほか、採用、教育、人事評価制度構築や資金繰りまで幅広くアドバイスを行う。説明調になりがちな人事労務をわかりやすく解説。趣味は10代からの大相撲観戦で、親しみやすさが魅力の照ノ富士のファン。

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