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自分で言うのもなんだが、私のオフィスは比較的お洒落な通りに面していて、その通りにはアパレル店やカフェ、美容室などが軒を連ねている。

そんな中、帰りに通ると、夜の9時、10時でも決まって明かりがついているのは美容室だ。今日も夜9時にオフィスを出たが、美容師さんがカットの練習に励んでいるのがガラス越しに見えた。

一般的に美容師業界はカット練習も含めて長時間労働になりがちと言われているが、このような実態を労働基準法に当てはめ、仮に勤務時間後に無給でカット練習する場合、どこまでが合法で、どこからがサービス残業になるなのか検証することは、他業種への示唆も含め有益だと思い、ダンダリン第8話で研修時間の労働時間性が問題となったこの機会に「美容師さんのカット練習の労働時間性」というテーマで筆を取ることとした。

法的に「労働時間」とは何か

カット練習がサービス残業になるかの大前提として、その練習時間が労働時間と認定されるかどうかがポイントなので、まずは「労働時間」の定義について正しく押えておきたい。

日常生活上、労働時間というと、会社の就業規則などで定められた始業時刻から終業時刻までとイメージする方が多いかもしれない。しかし、法的にはそのような形式的な定めにはとらわれず、実態に応じた実質的な判断がなされている。最高裁判所も「労働者が使用者の指揮命令の下に置かれている時間」が労働時間であると、判決文の中で定義している。

この「指揮命令の下に置かれている」というキーワードは重要なので覚えておいて欲しい。

分かりやすい例で言うと、始業時刻が午前9時の会社において、労働者が8時半に出社した場合を考えてみよう。その労働者が自分の意志に基づいて、1日の仕事の段取りをスムーズにしたいということで30分早く出社をしたということであれば、そこには何ら使用者の指揮命令は介在していないので、労働時間とはならない。しかし、使用者が全員参加の朝礼を行うので始業時間の30分前に出社するように、と指示をした場合には、労働時間となる。

また、明確な指示がなかったとしても、会社の総務部が作成した掃除当番表が貼り出されていて、当番になっている日は30分早く出社して掃除をしなければならないことが暗黙の了解となっていたり、掃除をしなかったことで何らかの処分や注意を受ける場合には、黙示の指揮命令があったとして、これも法的には労働時間となる。

もっと言えば、飲食店やアパレル店などで来客が全く無く店員が手持ち無沙汰にしている時間についても、仮に店員がiPhoneで遊んでいたとしても(就業規則上それが許されているかは別として)、来客があった場合は直ちに接客をしなければならない義務を負っているということで、潜在的に使用者の指揮命令が及んでいる時間として労働時間に参入される。いわゆる「手待ち時間」のことだ。

すなわち、明示黙示に関わらず、労働者が何らかの使用者の指揮命令の影響を受けていた時間は全て、労働時間になるということである。

カット練習は労働時間か

これまで述べてきたことを前提に、美容師さんのカット練習について考えてみよう。

従来、営業時間終了後のカット練習は、労働時間なのか、労働時間ではないのか、白か黒かの二者択一で論じられることが多かったが、私はもっと分析的に考えなければならないと思っている。

まず、その店舗で最低限通用するレベルの技術を身につけるためのカット練習に関しては、業務遂行に密接不可分なものであるから、業界の慣習はともかく、法的に論じるのであれば労働時間となる可能性が高い。それをしなければその美容室で働くことができないということに直結するので、明示的な指示がなくとも、採用された以上、黙示的な命令があったのと同視することができるからだ。営業時間後にカット練習が行われるのならば、時間外割増賃金を支払わなければならないことになる。

確かに美容師業界は「技術職」の色が非常に濃いという特殊な面はあるが、基礎的なスキルを身につける研修については、製造業の安全衛生研修、ホテル業の接客マナー研修等と、法的な位置づけは同じだ。

一方で、美容師は非常に競争が激しい業界であるから、最低限の技術力しか持っていなければ業界の中で生き残ってはいけないであろう。給料も歩合給、能力給の色が濃い体系になっているのが通例だ。そこで、より高い技術を身に付け、自分自身が美容師として成長するために自発的に取り組むカット練習があることは間違いない。このような自己啓発的なカット練習は「使用者の指揮命令が及んでいる」とは言えないので、原則として法的には労働時間とはならない。

使用者側にしてみれば、本人の自助努力のための場を、電気代や水道代を負担して提供しているのだから、むしろ「場所代」をもらうことができる立場だ。

比喩的に言えば、美容室というのは、営業時間中は「美容室」であり、オーナーは「使用者」である。これに対して営業時間終了後は美容室は「稽古場」に変わり、オーナーが技術指導やアドバイスをするならば「先生」という立場になる。稽古場で習い事をして月謝を払う生徒はいても、技術を教えてくれる先生に生徒が残業代を請求することは(法的にも人情的にも)おかしいのでは?、ということだ。

もっとも、ダンダリン第8話で登場した会社のように、研修に参加することが表面的には自己啓発的であったとしても、不参加者に人事考課で不利益が与えられたり等、間接的に参加を強制する要素があるような場合は、使用者の指揮命令が及んでいるとして、いかなる研修や練習も、労働時間扱いとなる。研修に名を借りた業務の延長の場合も同様である。

使用者側が考えるべきこと

最後に、蛇足になるかもしれないが、使用者側の視点からも本件を検証しておきたい。私が美容室の経営者側から依頼を受け、労務管理のアドバイスをするのであれば、就業規則に、どこまでが使用者が業務上必要としてが命じるカット練習の範囲であり、どこからが自発的なカット練習なのかが分かるよう、何らかの基準を定めることを勧める。例えば、一定の社内資格の認定を受けるまでのカット練習は業務上のものであるが、そこから先は自己啓発である、というようなルールが想定されよう。

さらに言えば、日常の運用として、業務上必要なカット練習の場合は「残業命令書」を発行し、自発的なカット練習の場合は「練習場利用申請書」を書かせるというルールを設けておけば、仮にサービス残業訴訟が発生した場合にも、カット練習時間全てがサービス残業時間と認定されてしまうリスクを相当低減することができる。サービス残業訴訟で「言った言わない」の水掛け論になると使用者側は大いに不利になるので、記録を正しく残すことが重要なのである。

これまた比喩的に言えば、就業規則等で「美容室」と「お稽古場」の境目をはっきり「線引き」しておきましょう、ということである。

ただし、本質的に大事なことは、ルールを作ることではなく、従業員が「やる気」と「熱い心」を持って積極的に仕事や自己啓発に取り組むような職場の雰囲気をつくることだ。ルールはあくまでも万が一のための保険であり、普段は労働基準法の「労」の字も出てこない円満な職場であることが何よりなのだ。

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特定社会保険労務士・CFP 榊 裕葵

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