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経団連は今月15日、今年の春闘に向けて経営側の指針となる「経営労働政策委員会報告」を発表し、その中で、2008年以来、6年ぶりに「ベア」を容認する方針を示した。実際にベアを行うかは個々の企業の判断になるが、本当にベアは労働者の幸せにつながるのだろうか。

「ベア」の意味

ベアとは、もちろん「熊」のことではない。「ベースアップ」の略語である。ではベースアップとは何かというと、一言で言えば「賃金表の書き換え」である。例えば、ある会社の賃金表で、勤続1年目20万円、2年目21万円、3年目22万円・・・というように書かれていたら、勤続年数に応じて賃金が1万円ずつ上がっていくのは「定期昇給」である。これに対し、ベアが行われると、勤続1年目21万円、2年目22万円、3年目23万円・・・という形で、賃金表の数字自体がアップするのだ。ベアと定期昇給が同時に行われた場合、この会社の場合は一気に賃金が2万円アップすることになるわけだ。何ら悪い話ではなさそうではないか。

しかし、安易なベアの実行には、主に3つの問題があると私は考えている。

ベアがもたらす固定費の上昇

第1の問題は、固定費の上昇だ。毎月支払わなければならない賃金は紛れもなく固定費である。ベースアップにより賃金表を書き換えると、全ての労働者の賃金が底上げされるわけであるから、固定費が一気に上昇し、再び下げることはほぼ不可能である。今は景気が上を向いているから良いが、次に景気の谷がやってきたとき、高い人件費がボトルネックになって、会社が赤字決算に陥ってしまうかもしれない。日本の裁判所は、単年度の赤字くらいでは労働条件の引下げや解雇は認めず、赤字が続いて会社が瀕死の状態にならない限り、強制的な賃下げや整理解雇は認めないので、固定的な人件費の上昇は大きな経営リスクなのである。

そこで、会社が人件費を減らしたい場合、多くのケースでは希望退職を募集することになるのだが、募集が集まらないと、「リストラ部屋」なるものまで作って、会社も労働者も「我慢比べ」に入ってしまう。これが、お互いにとって幸せな姿と言えるだろうか。

この点、ベアに使うべき原資を賞与に回したのならば、賞与は業績により支給額が変動しても問題のない賃金なので、会社に利益が出ているうちは手厚く賞与を支給し、景気が悪くなったときには賞与を減らすことができる。だから、会社としては従業員への還元はベアよりも、賞与で行ったほうが経営の柔軟性を保ちやすい。もちろん、あまりにも極端な賞与の増減は労働者の生活をかき乱してしまうので、社会的相当性が得られる範囲の増減に留めることが望ましいことは付言しておく。

ベアがもたらすモラルハザード

第2の問題点は、モラルハザードだ。終身雇用が過去のものとなり、賃金体系も年功序列から成果主義へ移行しつつある今、極端な言い方をすればベアという考え方自体が「時代遅れ」なのかもしれない。高度成長期のように日本全体が右肩上がりで成長し、年功序列が当然だと思われていた時代なら、ベアは平等な制度だったであろう。しかし、現在は個人個人の成果が厳しく評価される時代だ。そのような中、頑張った人も頑張っていない人も、同じようにベアで昇給するのでは、逆に不平等な制度になってしまうのではないだろうか。

同業他社に比べて賃金水準が低いから、人材の囲い込みのためにも賃金の底上げが必要とか、戦略的な目的を持った上でベアを行うのなら良いのだが、今年は儲かりそうなので、取りあえず我が社もベアをやってみるか、というのは辞めたほうが良い。

ベアを行うよりも、給与体系の再構築を行ったり、1人1人の労働者と向き合って人事考課や面談等をこれまで以上にしっかりと行ったりして、昇給すべき人を昇給させる、というメリハリをつけなければ、優秀な人ほど自分を評価してくれる会社へ転職してしまうであろう。また、これまでは頑張っていたはずなのに、「なんだ、頑張らなくても給料が上がるのか。」ということでモチベーションが下がったり、ついには晴れて「頑張らない人」の仲間入りをしてしまう人も出てしまいかねない。

ベアがもたらす競争力の低下

第3の問題点は、競争力の低下による仕事の失注である。とくに製造業ではその懸念が高いと思われる。現在は陸海空の交通網が発達し、TPPでも明らかなよう、国境を越えたビジネスの自由化が進んでいる。企業は同じものが手に入るならば、世界中を探して最も安い場所から調達しようと、世界規模での調達戦略を練っている。例えば、パナソニックのように購買や物流の本社機能をシンガポールに移してしまった会社も存在する。

三菱東京UFJ銀行の国際業務部作成の、2013年5月10日付レポート「アジア各国の賃金比較」によると、米ドルベースで見て、一般工1人当りの月度賃金は、中国の上海で449ドル、インドネシアのジャカルタで239ドル、タイのバンコクで345ドルということだ。日本人1人当りの賃金と比較すると、10分の1から5分の1の水準である。近年賃金が下落傾向にあるとはいえ、アジアの中で日本人は、まだまだ破格の高級取りである。

もちろん、物価の違いなども考慮に入れなければならないが、日本で作っていた製品と同じものが中国やタイで作れるのならば、企業は海外へ工場を移転したいと考えるのは無理もないことだ。新工場建設の設備投資は世界中どこに工場を作っても大きくは変わらないのだから、最終的には人件費の勝負になってしまう。そうすると、ベアによって人件費を上げたことが仇になって競争力を失い、その会社で行っていた仕事自体が海外へ流れてしまうこともありうるのだ。

現に、自動車メーカーなどでは原価低減のため現地調達率のアップに躍起になっていて、トヨタやホンダなど主要自動車メーカーの完成車工場は中国や東南アジアに数多く存在しているが、従来日本から輸出していた部品を、次々と現地調達に切り替えている。

「アジアのデトロイト」と言われるほど自動車産業が集積しているタイでは、既に日本と同等レベルの金型を製作できるほどの技術力を備えた会社も存在し、大手自動車メーカーは、自動車のボディーの精度を左右する金型さえも現地での調達を拡大している。繰り返しになるがその会社で働く労働者の人件費は日本の数分の1なのである。

また、国内では九州に新工場を建設する自動車メーカーが増えているが、これも、国内で相対的に人件費が安いことに加え、アジア圏から安く部品を調達するための戦略を踏まえた上での立地選択なのだ。

結び

賃金が上がることは誰だって嬉しいし、それで消費が活発になれば経済全体が恩恵を受けるであろう。しかし、その給料アップの手段を、「景気が良くなったからベアを行おう」ということでは、現在の日本を取り巻く複雑な社会・経済環境の中、あまりに短絡的すぎないか、というのを私は懸念しているのだ。

頑張った人が「これからももっと頑張ろう!」とモチベーションを高めるような人事制度を構築したり、サービス残業のような国際的には通用しない労働慣習はやめたり、アジアの新興国が真似できないような付加価値の高い製品を開発して、高い賃金を払っても競争力が失われないビジネスモデルを構築したり、といったように、持続可能な明るい未来を切り開くために、私たちが新たに取り組まなければならないことや、痛みを伴ってでも変えていかなければならないことは、決して少なくはないはずである。

《参考記事》
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社会保険労務士・CFP 榊 裕葵

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