仁王

就活時期変更元年の今年、既に内々定を得ている学生は7割、8割を超えたともいわれます。中には既に内々定を得ているにもかかわらず、まだ就活を継続している学生もいます。しかし複数内定を得たということは、この先入社する会社を1社に絞り、それ以外は断らなければなりません。内定辞退に悩む学生は非常に多く、この時期からキャリアカウンセリングでは毎年たくさんの相談を受けるテーマです。内定辞退の心構えを考えましょう。(正確には「内定」と「内々定」は別ですが、便宜上現時点で一般的である「内々定」を辞退することを「内定辞退」と表記します)

■内定を辞退するとどうなるか
当然ですがその会社から嫌がられます。会社にしてみれば採用計画の算段が狂うのですから、採用担当者にはおおいに迷惑。快く思う訳がありません。まずは内定辞退とはとても迷惑なことなのだと自覚するのは前提として必要です。

一方、いきなり電話で怒鳴られるとか、会社に呼び出されて脅される、コーヒーをかけられるといった噂が学生には広がっているかも知れませんが、まともな会社はそこまではしません。ただ世の中には法令違反や犯罪を犯す人や企業が現実にあるのと同様に、中には異常な行動をする人がいる可能性も否定はしません。

しかしご自分の人生の選択ですから、たとえ会社に迷惑がかかろうとも、気が進まなくとも辞退を伝えなければなりません。さらに、いろいろな企業の中から志望して受けた会社であるということは、この先将来の人生において、何がしかの関係が出てくる可能性もあり得ます。

ここは法律論を持ち出し「当然の権利だ」と開き直るのではなく、ご自身のためにも上手にこの撤退戦をまとめることで、高いコミュニケーション能力が身に付きますし、何よりこれから入る企業社会での経験を人より先んじて体得できる機会だと考えてはどうでしょう。


■撤退戦とは
就活を、内定を得るために行われる戦いだとすれば、勝つための戦い、すなわち通常戦です。戦いは内定を得ることをゴールにポジティブに進みます。これに対し内定辞退は、いかに事態を収拾するかという点で、「勝ち」ではなく、お断りというネガティブなゴールを目指す戦いです。こうした戦いは、戦闘においても消耗や損害を軽減させることが重要となる撤退戦と呼びます。

古来戦闘で一番難しいのが撤退戦、「殿(しんがり)戦」などといわれます。内定獲得までの戦いでは、内定を得られれば学生も採用企業もともにハッピーなゴールになります。しかし内定辞退戦では、採用企業側はこれまでの採用活動が無駄に終わってしまう迷惑なゴールですから、学生側の意思が通る=企業側は損をする、困るという構図になります。

そうした相手に損になることを飲んでもらう交渉は、ビジネスにおいても時として発生する高度で困難なものです。逆にこうした交渉で成果を上げられることは、大きく出世や評価につながります。会社社会に入る前ではあっても、内定辞退という難しい交渉を経験しておくことは、自身を成長させる非常に有効な機会でもあるのです。


■謝罪の作法
社会人でも勘違いしている人が多いのですが、謝罪の究極の目的は正しい理由の説明や誤解を解くことではありません。事態を収拾することです。芸能人や政治家が記者会見などで炎上するのはほぼすべて、自分たちの正しさを訴えたことが原因です。「真実を知ってほしい」とは、すなわち「自分たちは悪くない」という弁明であって、それが真実であったとしても炎上してしまうのです。

謝罪は言い訳でも説明の場でもなく、事態収拾の場であることを認識しましょう。相手が納得できることこそが謝罪のゴールです。仕事を始めると、必ず謝罪しなければならない状況に陥ります。これは無能だからではなく、熱心に取り組めば取り組むほど失敗する数が増えるからです。人間は機械ではないので一定の率で失敗はあります。それを低減させるような努力は必要にしても、ゼロにすることは不可能です。

逆に仕事で失敗をしたことがないというのは、いってみればリスクを負うような業務をしていないということであり、誰でもできるような重要性の低い任務と考えるべきです。要は新しいことやチャレンジングなことを何もせず、常に敷かれたレールの上をならすだけの仕事をしているなら、失敗のリスクはなくとも、いくらでも替りがいる人材でしかなくなります。

内定承諾書を提出したのにそれを後で辞退するのは、労働契約書へのサインと違い法律違反とまではいえません。しかし事態収拾という視点からは、法律論ではなく心情が大切ですからお詫びに徹する必要があります。都市伝説化した、「会社に呼び出されて暴言を吐かれた」「コーヒーをかけられた」など、恐ろしく感じるかも知れませんが、無限の賠償責任を負ったり暴力を振るわれるというのはビジネスではあり得ません。

もちろん怒りで多少乱暴な言葉を投げられることはあるかも知れませんが、生命や身体を脅かすような暴言は犯罪であって、内定辞退をする代わりに許されるものではありません。ゆえに大丈夫なのです。そうはいっても怒られるだけでうれしい人間はいません。しかしこれは「仕事」なのです。これから社会で活躍するため、成長に不可欠なトレーニングの機会なのです。

予防注射は痛いかも知れませんが、結果として病気にかかりにくくなるメリットを理解しているから、注射の痛みは受け入れるのです。嫌な思いはすることでしょう。しかし少なくともその上限は法律が守ってくれます。身体的暴力は論外で、言葉による暴力すら法律がある限り、ご自分は守られています。もし相手がそれを越えたら、謝罪は終了となります。謝罪はビジネスの一環であり、精神修養ではありません。その相手が法律違反を犯したのであれば、その相手とビジネスを続けることはできません。


■コンプライアンスという防波堤
昨今のコンプライアンス重視は、まともな企業なら絶対に理解しています。法律という一線を越えたらまずいことはわかっています。もし違法なことを相手がした瞬間から、もうそれ以上謝罪をする必要がなくなるのです。私は謝罪の場を何度となく経てきました。内定辞退よりはるかに深刻な事態をくぐり抜けましたが、実際に殴られたことは一度もありません。

暴力的な言動は何度か受けたことがありますが、それはいわば謝罪のゴールが来たことを意味する訳ですから、謝罪はするが暴力や侮辱を受けることとは別であると冷静に説明し、事態は収拾できました。繰り返しますが、謝罪は事態収拾をするためのものであって、自分の選択の正当性を訴える場ではありません。迷惑をかけたことは間違いのないことですから、ひたすらお詫びすることに徹する仕事だと割り切りましょう。

自分の身勝手であり、わがままで、悩みぬいたあげくに自分のわがままを通させていただいたので詫びに参りましたということしか、内定辞退の場で述べることはないのです。採用活動の労苦を無駄にしたことを詫び、それらはすべて自分の未熟さゆえであることを詫びる。自分の正当性を訴える場ではなく、マナーや精神論でもなく、事態収拾という実務的ゴールを目指す仕事だからです。

このように謝罪のプロセスにはガイドラインがあります。私は「謝罪の作法」と呼んでいますが、嫌な交渉ではあっても、謝罪というコミュニケーションのプロセスを理解し、内定辞退を完了できたなら、あなたは既に入社前にして、ビジネスの世界におけるコミュニケーション能力を同期の人間より数段上に高められているのです。


【参考記事】
■東京五輪招致ネゴシエーションに見るロジックの破綻
http://shachosan.rm-london.com/?eid=795507
■歴史に学ぶ、リーダーがしてはならないこと
http://shachosan.rm-london.com/?eid=850281
■「手書き履歴書で人柄がわかる」という勘違いへの対策
http://sharescafe.net/44225940-20150411.html
■新国立迷走に見る、コミュニケーション混乱の斬り方
http://sharescafe.net/45623155-20150720.html
■新国立迷走に見る、組織の意思決定過程解剖の意義
http://sharescafe.net/45889946-20150812.html

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