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2016年のノーベル経済学賞の受賞者がハーバード大学のオリバー・ハート教授とマサチューセッツ工科大学のベント・ホルムストローム教授の二人に決まりました。

後者のベント・ホルムストローム教授は、モラルハザードやアドバースセレクションといった、情報の経済学や契約理論における核となる研究をされていらっしゃいます。まさに正統中の正統、一昨年に受賞されたティロール教授と並び、ゲーム理論の応用分野の中でも、最も重要な分野で、既に70年代後半から成果を出してこられました。

特に人々が多数で成果を出すような生産体制において、それぞれの努力がわからないという情報の非対称性がある場合、すなわちチーム生産特有のモラルハザードの問題を定式化した研究が有名です。個人的には、過去の受賞者と比べても、ホルムストローム教授が受賞するのは全く違和感がありません。

そういう意味での業績としては、ハート教授が受賞するのも全く違和感がありません。それだけの多大が業績を残されています。また、実はこの分野で博士論文を書き、この分野を未だに研究している小職にとっては正直喜びもひとしおです。

しかしながら、ハート教授の受賞理由である不完備契約理論には、様々な苦難の道がありました。正直、私が博士論文をまとめていた2000年前後には、実はこの理論が世界的に日の目を見ることはないのでは?と諦めていたほどです。

それが今回の不完備契約理論が受賞理由の一つとなったのは、その後のハート教授自身の精力的な研究に加え、その理論的な進展、そして、多くの発展的な研究がありました。

2015年に他界され、1994年にノーベル経済学賞を受賞されたジョン・ナッシュ教授は、理論的な貢献としてノーベル賞を受賞することは誰も意義を唱えないでしょう。むしろその後の氏の半生に紆余曲折があり、その劇的な半生はビューティフルマインドという小説にもなり、映画化され、アカデミー賞作品賞も受賞しました。

そういった半生の紆余曲折とは異なり、理論の頑健性に関してノーベル賞に値するかは、文学的には脚光を浴びないものの、当事者としてはもっと切迫した話です。小職は、ハート教授ご自身とは面識はありませんが、この分野で研究をさせていただいている研究者として、ここでは、そういった紆余曲折を紹介したいと思います。

■1.契約理論とは

売り手は商品の質を知っているが、買い手は知らない、売り手は食品の成分を知っているが、買い手は知らないといった、売り手と買い手の間の情報の偏在の問題を解決する手段として、適切な契約や規制を用いて対処することが考えられます。これをゲーム理論の応用として体系的に考察することを試みているのが、契約理論です。

経済学は物理学に似て、先ず理想的な状態を想定し、その状況の下で何が出来るかを分析し、その効果を定量的に把握することをベンチーマークとすることが多いです。契約理論もこれに違わず、全ての状態に対して履行すべき条項がすべて書き備えられているような完全な契約(以下完備契約とします)を想定して研究が進められました。

契約が完備に加え、その遵守(コンプライアンス)も完全であると仮定されることが多いため、完備契約理論と呼ばれます。そして、情報の偏在の問題に直面した場合、そのような完全な契約がどの程度有効か、契約において、どのような原理を前提とすべきかが検討されました。もう一人の受賞者のベント・ホルムストローム教授の主要な業績の一つは、この完備契約理論の分野に属し、チームで生産する場合、互いの努力水準がわからない場合に起こるモラルハザードの問題を指摘したことです。

■2.不契約理論とは
しかしながら、起こりうる可能性のある状態を全て網羅するような完全な契約を現実に書くのは殆ど不可能です。そのため、契約理論の研究の次のステップとしては、現実に書けるような不完全な契約、つまり、不完備契約の下でどういった問題が発生するのか、そしてその問題が実際にどのように対処されているのかを分析することがあげられます。

ハート教授の受賞理由となった不完備契約理論、所有権アプローチはグロスマン教授との86年の共著論文に始まります。これを最も基本的なバイヤーセラーモデルで説明しましょう。

通常の市場では、多数の売り手が市場の供給、多数の買い手が市場の需要を構成し、不特定多数の需給を価格が調整します。こういった市場を完全競争市場といい、経済学が想定する最も重要な市場です。

それに対して、自動車メーカーと部品メーカーの部品の取引などは、そういった不特定多数の取引ではなく、相対での取引が多くなります。自動車の部品などは、各自動車の各車種にカスタマイズする必要があり、市場で標準化された部品を購入するというより遥かに売り手も買い手も少なくなります。

このような場合、売り手や買い手が取引する部品の性質は非常に複雑です。事前におおよその部分を決定してしまっても、最終的な部品はどうなるか、全くわからないという場合も多いのではないでしょうか。そういった場合、事前には簡単な契約を決めておいて、おおよそ部品のスペックが特定されてから再契約せざるを得ない状況になります。

このように事前の契約が不完備な状況を分析したのが、不完備契約理論です。契約が不完全な場合、当然様々な問題が発生します。その中で、90年代の不完備契約理論では、ホールドアップ問題を中心に取り上げてきました。それは、部品が完成していく過程で行われる様々な売り手と買い手の作業、つまり部品を完成するために費やされた売り手と買い手の投資水準に関して、契約が完全ならば、特定できる投資水準やその利得が、不完備のために規定できないことによって起こります。

その場合、事後的な交渉によって利得の配分を一律に決めざるを得ません。投資主体の利得の一部が他者に移転し(これをホールドアップと言います)、十分な便益を得ることができなくなります。結果として、投資が過小になることが示されました。

分かりやすくいうと、食事会や飲み会で、食べた量に関わらず、清算するときにどんぶり勘定の割り勘になってしまう状況を想定してください。そういった状況でも、自分だけ極端にたくさん食べるということは少ないかもしれませんが、どれだけ節約しても負担が変わらないと、結局節約しても特にならないため、節約しないということになるのではないでしょうか。

このように、事前の努力水準や投資水準に関わらず、事後的に一律に配分が決まるため、努力することを怠ってしまうことを、ホールドアップ問題といいます。

この対策として、オプション契約のような再交渉に関する何らかのコミットメントツールを設計することや、交渉力の改善のための所有権の配分があげられます。前述のバイヤーセラーモデルでは、自動車メーカーが部品を部品メーカーから調達する状況を用いて説明しましたが、部品を生産する事業部を社内に持っている場合もあります。その差は、子会社を吸収して内製しているか、外部の部品メーカーから外注するかのどちらかです。

部品を生産するために必要な資産の総体としての会社を誰が所有しているかが交渉力の観点からも重要になります。仮に子会社の貢献が重要であれば、子会社が自社の資産を持ち、独立の会社のほうが望ましいのに対して、親会社の貢献が重要であれば、部品メーカーを吸収合併する方が望ましいと言えます。

結果として、所有権を誰が持つかを投資の重要性によって決定し、更には、その企業の境界を規定することになります。そういう意味で、所有権アプローチとは、企業の境界を決定する画期的な理論と言えます。

更に、株式や債券などの金融資産の権利形態も、所有権の延長として、明示的に分析されます、結果として不完備契約理論は1990年代に、既にコーポレートガバナンス、企業の資金調達方法、公企業の民営化等様々な分野に応用されました。例えば、ハート 先生の本を参照してください。

■3.不契約理論の頑健性

このように幅広い応用分野を持ち、分析にも有益と考えられた不完備契約理論ですが、経済学やゲーム理論が伝統的に前提とする合理性の観点からは、根本的な問題があると考えられました。

不完備契約理論も、ゲーム理論に基づいています。それは、すべての状況について予想できるような合理的な経済主体を仮定し、しかも当事者間での情報を完全に共有していることを前提としています。そのため、契約自体が不完備であることの根拠としては、第3者、ここでは契約の有効性を判断する裁判所には観察不可能であるということを根拠にしています。第三者との情報の非対称性、及び第3者に明らかにするために必要な契約を書くコストが膨大になることにより、結果として事前の契約は立証されない(立証不可能性)というものでした。

これに対して、ティロール教授を中心に、合理的な経済主体を前提とした場合、当事者が情報を完全に共有しているのであれば、簡単な契約を利用することで、第3者に対して、事後的に正しい状態を示すことができ、それをもとに最適な水準を達成することが出来るということが提示されました。それ以降、不完備契約理論は一般的には基礎が非常に脆弱であると思われてきたのです。

しかしながら、スタンフォード大学のシーガル教授の研究で示されたように、この問題を考察した結果、再交渉に関するコントロールが可能かどうか、(理論的には、再交渉をしないことも含め、再交渉に関する方法への何らかのコミットメントが可能かどうか)が、ホールドアップ問題発生の鍵となることが明らかになりました。

そのため、交渉に対して何らかの制限が可能であるという立場と、可能でないという立場で不完備契約理論についての見方が違うというのが実は2000年代の見方です。当然、前者の立場からは、不完備契約理論が理論的には不十分であると考えるわけです。このような状況の中、そもそも不完備契約理論の研究自体が少なくなり、2000年代は学会では極めてマイナーな分野となりました。

個人的には、契約の不完備性と、その結果制度の補完が必要であるという不完備契約理論の考え方が、イギリス出身のハート教授から導出され、非常に経験論的な印象を受けました。それに対して、合理性を追求すれば、契約の記述不可能性など問題ではないと主張するフランス出身のティロール教授との論争は、19世紀のイギリス経験論とフランス合理主義との論争の再来にも思えます。

19世紀はカントからフィフィテ、シェリング、ヘーゲルに至るドイツ観念論がこの論争を止揚させたわけですが、現在この論争を止揚する理論は、まだ到来しているとは言えない気がします。

■4.ノーベル賞の受賞

こういった頑健性に関する問題提起はあるものの、応用しやすい不完備契約理論は、その後も研究の展開があります。近年進歩が著しい研究として、行動経済学があります。しかし、実際に理論的には非常に複雑でなかなか扱うのが困難です。また、情報の非対称性がある完備契約モデルは、一方ではなく、双方が非対称情報を持つという現実的な状況においただけで、非常に複雑になり、解くのが非常に難しいことが知られています。そのため、双方に問題があるといった現実的な設定をモデル化するのは容易ではありません。

そういう意味で、比較的明快に様々な制度的な補完性を説明し、一般均衡にも応用できる不完備契約理論はまだまだ有効性があるのではと考えています。実際、2016年2月に公刊された不完備契約理論の25周年を記念して開催されたシンポジウムの内容を発展させた参考文献にある、The Impact of Incomplete Contracts on Economicsは、改めてこの分野に多くの学者が関わっていることを認識させられました。

その中でも、ハーバード大学のポール・アントラス教授が多国籍企業の分析に展開したことが大きな進歩です。多国籍企業の分析は、国際経済でも重要な研究の一つです。しかし、アントラス教授の研究以前は、企業統合によって、生産が改善するといった単純な仮定を置いたものが多かったわけです。アントラス教授は、そこに所有権アプローチを導入し、どういう場合企業が他国の企業を買収して多国籍企業となった方がいいか、はたまた現地企業から購入するにとどめた方がいいかまで掘り下げて分析しました。

そして、より現実的な多国籍企業の分析を実現させました。さらに、それが各国の国際収支や国民総生産にどのような影響を与えるのかについても考察しています。例えばホールドアップ問題の分だけ個々の産業の生産量が過小になる反面、余った資源がどのように利用されるのかといったことを高度に分析しています。

また、不完備契約理論の頑健性の問題についても最近新しい研究の進展がありました。シンガポール経営大学の国本先生が錚々たるメンバーと研究された、インプリメンテーションメカニズムに関する脆弱性の指摘です。これにより、必ずしも合理的な経済主体だからと言って、ホールドアップ問題が常に解決されるというわけにはいかないということもわかってきたのです。個人的には、この研究が今回のハート教授の受賞の大きな後押しではないかと考えています。

以上、この20年間理論的にも紆余曲折があり、今後も議論が続きそうです。それでも使い勝手が良く、多くの分野に比較的容易に適用できる不完備契約理論はまだまだ有益ではないかと思う次第です。また、アントラス教授の貢献が、組織の経済学と国際経済学という専門的にも相当離れた研究の境界領域の成果である点も考えさせられます。今後も、そういった挑戦的な境界領域の研究が、重要となるでしょう。

【参考記事】
■経済学部教員コラム vol.83 2016.09.12経済学科 中泉拓也「柳瀬さんと小網代との出会い」
http://keizai.kanto-gakuin.ac.jp/column/column-2161/
■経済学部教員コラム vol.47 2014.09.15経済学科 中泉 拓也「藤野さん講演会」
http://keizai.kanto-gakuin.ac.jp/column/column-1188/
■1票の価値は百万円?(中泉拓也 関東学院大学 経済学部教授)
http://sharescafe.net/48990722-20160702.html
■高齢化社会へのヒント「どうせなら、楽しく生きよう」(中泉拓也 関東学院大学 経済学部教授)
http://sharescafe.net/47759756-20160208.html
■三角関数もATPの知識も役に立つ。(中泉拓也 関東学院大学 経済学部教授)
http://sharescafe.net/46125440-20150901.html

中泉拓也 関東学院大学 経済学部教授

【参考文献】
SJ Grossman, OD ハート[1986] "The costs and benefits of ownership: A theory of vertical and lateral integration” - The Journal of Political Economy

Holmstrom, Bengt "Moral Hazard in Teams"The Bell Journal of Economics, Vol. 13, No. 2 (Autumn, 1982), pp. 324-340

Maskin,E., Tirole J. [1999a] '' Unforseen Contingencies and Incomplete Contracts '', Review of Economic Studies,66,83-114.

Philippe Aghion, Drew Fudenberg, Richard Holden, Takashi Kunimoto and Olivier Tercieux [2012] "Subgame-Perfect Implementation Under Information Perturbations” Quarterly Journal of Economics 127(4)




不完備契約理論の応用研究
中泉 拓也
関東学院大学出版会
2004-05











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