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この4月に改正高年齢者雇用安定法が施行され、企業には65歳までの雇用確保が義務づけられるとともに、65歳から70歳までの就業機会を確保することが企業の努力義務となった。いわゆる70歳定年制が現実のものとなってきた。

経営者や人事労務担当者にとって、定年延長に向けてどのような制度にすべきか、必要な施策は何か、シニア人材をどのように活用するか、活躍できる職場づくりはどのようにすべきか、まさしく頭の痛い課題である。

そこで一つ参考になりそうな例が、日本相撲協会だ。意外に知られていないが、日本相撲協会では2014年から親方(年寄)に限り、定年再雇用がはじまっている。65歳で定年を迎えた親方のうち、希望者は理事会の審査を経て参与として再雇用されることができ、再雇用された場合70歳まで雇用が延長されるのだ(本稿では、便宜上65歳定年再雇用と呼ぶこととする)。

一足先に親方の65歳定年再雇用制を導入した日本相撲協会の現実から学べることは多い。なぜ、日本相撲協会は2014年という早い時期から親方の定年再雇用を取り入れることができ、大きな混乱も無くスムーズに移行できたのか? 相撲観戦歴40年を超え、定年延長制度を顧客に提言する社会保険労務士の立場で「親方の定年再雇用」について考えてみたい。

■力士や親方は会社のサラリーマンそのもの
日本相撲協会は、正式名称を公益財団法人日本相撲協会といい、力士、親方(年寄)、行司、呼出等合わせて従業員(協会員)1000人あまりの法人組織である。

法人なので一般の会社と同じように就業規則もあるし、協会員は労災保険、雇用保険、健康保険、厚生年金に加入している(力士は労災保険・雇用保険には加入していない)。

親方や十両以上の関取と呼ばれる力士は、普通のサラリーマンと同様に相撲協会から月給や賞与をもらい税金や社会保険料を給与天引きされているのだ。

つまり、相撲協会は会社であり、力士や親方は相撲協会に雇われているサラリーマンと考えてよい。

■親方の定年再雇用
親方は正式には年寄という。親方として相撲協会に雇用されるためには、原則的には総数105しかない親方株(年寄名跡)を持っている力士でなければならない。たとえば、今度相撲部屋を開く「荒磯親方」といえば引退した元横綱の稀勢の里が、親方株(年寄名跡)「荒磯」を引き継いで親方になったということになる。

例外的に横綱経験者であれば、5年間は力士名を親方名にして働くことができる。最近引退した横綱鶴竜が鶴竜親方になったのがこれにあたる。

親方になると荒磯親方のように相撲部屋を開いて後進の力士を指導するほか、理事(会社の役員にあたる)、委員(部課長)、主任(係長)、年寄(一般社員)、参与(定年再雇用者)として相撲協会の運営にかかわることで、サラリーマンと同じように給料、賞与、退職金などを支払われることになる。

力士を引退して親方になるということは、相撲協会という会社で定年65歳または70歳の正社員として採用されたと考えればいい。親方として65歳で再雇用されたなら参与という役職になり70歳まで雇用が延長され正規雇用の場合の70%の給与が支給される。2013年に65歳までの雇用継続が義務化されたことを受けて、会社の65歳定年再雇用と同様の制度を今から7年前に実施したのである。

結果として相撲協会の定年再雇用制への移行はスムーズに進んだのだが、それを可能にした理由を以下で述べたい。

■定年延長にともなう親方ポスト不足の問題が起きなかったこと
現役力士が35歳で引退して、定年65歳の親方に採用されると30年間は親方として働くことになる。親方株の総数105を30年で割ると、平均して1年間に3.5人の親方が引退して、親方ポストが空くことになる。

雇用をいっぺんに65歳から70歳まで延長すると、その後5年間にわたって引退する親方がいなくなる。すると3.5人×5年=17.5人分の親方株が足りなくなる。定年再雇用が実施されてから5年間は、現役力士が引退しても親方になれなくなるのだ。

しかし幸いなことに、相撲協会で親方65歳定年再雇用が導入された2014年には、105ある親方株の1割強にあたる11株が空いていたのだ。1年平均3.5人の親方希望者の力士に対して、当面は親方株が不足することにはならなかった。このため当時現役引退を考えていた力士の抵抗もなく、スムーズに定年再雇用制に移行できたのだ。

■深刻な人件費上昇の問題も生じなかった
雇用を70歳まで延長するのであれば、相撲協会は65歳から70歳までの5年分の親方の人件費を追加で支払うこととなり、負担する人件費の総額も増えていく。2014年以降の相撲協会もそうなるのだが、もともと親方株は105までという制限がある。このため、雇用を延長しても相撲協会が支出する人件費は親方105人分以上にはならない。

もともと、相撲協会は105人分の親方の人件費を負担したうえで経営が成り立つような収支計画を立てて経営している。定年再雇用で、経営に深刻な問題を生じるほどの人件費上昇にはつながっていないのだ。

■再雇用者には役職ポストから外れてもらう
65歳で定年再雇用された親方は理事(会社の役員)や部屋の師匠としての親方にはなれない。役員ポストは後進に譲り、部屋の師匠のような激務から離れる。

再雇用後は、会社の嘱託にあたる参与(会社の係長クラスの主任と同等)になり、給与も下げられる。そして生活指導部という力士に礼儀作法を教育する部署や、国技館内にある相撲博物館を担当する部署などに配属されて仕事を続けることになる。前述のとおり、親方の定員105人分の仕事はあらかじめ用意されているのだから、その中で年齢に応じた負担の軽い仕事をするということなのだろう。

役員になりたい若手の親方にとって65歳の親方に70歳まで役員を続けられたら、5年は昇進が遅れることになり面白くないはずだ。こうした不満をなくすには定年再雇用になった親方には役職ポストから離れてもらうことは重要だ。

■出世先延ばしの恨みは恐ろしい
そもそも親方の定年が65歳になったのは1961年にさかのぼる。1960年以前は親方、行司、呼び出しも含めて定年はなく、相撲協会はまさしく終身雇用の職場だったのだ。

当時の行司は年功序列で階級が決められ昇進した。終身雇用の年功序列であれば、先輩の行司が亡くならない限り出世できないことになる。嘘か本当かはわからないが、当時の相撲の書籍には「先輩行司が亡くなると、後輩行司は赤飯炊いてお祝いした」という不謹慎な記述があるくらいである。役職不足で出世の見通しが立たない人事制度を戒める警句ととらえるべきだろう。

念のため付け加えるが、現在の行司も基本的には年功序列で昇進するが、定年は65歳である。定年が決められた年功序列制度では、先輩同様に働けば、何歳でどの階級につきどんな処遇を受けるか予めわかる。働く者にとっては有難い人事制度といえる。現在の行司には昔の行司のような不満は生じていないはずだ。

■親方株不足の問題
結果としてスムーズに進んだ相撲協会の65歳定年再雇用だが、制度導入から7年間たった現在、親方株が不足し、現役力士に定年再雇用のしわ寄せがきているという弊害も現れている。

親方株の人気には波があり、手に入れるためには2億円を払ってもいいという時期もあれば2千万円でも欲しくないという時期もあったようだ。そしてすべての現役力士が親方になりたいと希望しているわけでもない。

しかしながら、コロナ禍でありながら相撲人気が堅調な現在、親方になりたいという現役力士に対して、取得できる親方株は圧倒的に少ない状況にある。鶴竜のような横綱だった力士でさえも、親方株は取得できていない。横綱経験者の特例を使ってとりあえず5年間のみ親方を続けられるが、5年以内に親方株が取得できなければ、相撲協会で働くことができなくなる。

相撲協会は長らく親方株の総数を105に限定してきた。主たる収入が年6場所の本場所の入場料とNHKの放映料であることから将来飛躍的な収入増加が見込めない。だから人件費増につながる親方株の総数を増やすことは今後も行わないだろう。

35歳で親方になり65歳で定年になるなら30年間は親方として働くが、退職が70歳になれば35年働くことになる。これは、現役力士が親方になりにくくなることを意味する。親方の定年が65歳であれば、平均して1年間に3.5人の親方ポストが空いたのが、定年再雇用で退職が70歳になれば1年間で3.0人のポストしか空かなくなる。

これを15%のポスト大幅減と捉えるか、もともと年間3.5人の狭き門が3.0人に減っただけだと捉えるかは、考え方次第であろう。しかし現役引退を考えながら親方株取得が思うようにならない力士にとってみれば、65歳定年再雇用は何とも恨めしい制度改定ではなかろうか。

■70歳定年延長に向け、相撲協会から学べること
親方の65歳定年再雇用を、スムーズに導入した相撲協会から会社が学ぶべきことは多い。相撲協会があらかじめ現役の親方と再雇用対象の親方を合わせた定員の上限を105人と決め、人件費の上昇を抑え込めたたことが第一だ。

会社が定年延長するのであれば、むやみに人件費が上昇するようなことは絶対に避けなければならない。定年延長者に以前と同じ額の給与を払い続けたら、新規雇用ができなくなってしまう。

また、いわゆる相撲協会の正社員にあたる親方の定員105人のうち、65歳定年再雇用を実施した時点で、定員の10%以上は空いていた。このため親方を希望する現役力士にとっても、親方株が取りにくくなるような不利益が生じなかったことも幸いだった。

定年延長を始めようとするならば、どんな仕事を現役社員に任せ、どんな仕事を定年延長者や再雇用者に任せるのかという仕事の割り振りについて見直しが必要になる。そして、若手社員の役職昇進遅れを避けるべく、役職ポストからは退いてもらうことも重要だ。

■会社の定年延長にはメリットが少なくない
2014年から始まった相撲協会の65歳定年再雇用は2021年になってみれば、親方になることがより狭き門となってしまった現役力士の不利益の上に成り立つ制度である。

会社の定年延長について、ややもすると若年層の雇用機会を犠牲にして高齢者を優先雇用する若年層の不利益のうえに成り立つ制度であるとか、国が進めた年金支給開始65歳化のツケを会社に払わせる会社の不利益の上に成り立つ制度であるという意見もある。

しかし、会社の定年延長には少なくないメリットがある。少子高齢化に伴い定年延長を行わなければ、必要な労働力が確保できないからだ。高齢者の定年延長をしたからといって若年層の雇用機会を奪うことにはならない。

適切な定年延長を行うこととは経験ある従業員に、仕事の価値に見合った給与で働いてもらうことで会社の生産性を低下させないことなのだ。

70歳定年延長は近い将来必ず会社の義務になる。なるべく早く取り組みを始めることをお薦めする。

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河野創 青山人事労務代表/社会保険労務士

【プロフィール】
MBAを持つ社会保険労務士。大手企業で社内起業し自らも14年間海外子会社を経営。中小企業社長の気持ちや悩みがわかるコンサルタント。海外人事労務のほか、採用、教育、人事評価制度構築や資金繰りまで幅広くアドバイスを行う。説明調になりがちな人事労務をわかりやすく解説。趣味は10代からの大相撲観戦で、親しみやすさが魅力の照ノ富士のファン。

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