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「なんだか、家族じゃなくなるみたい」――。

これまで扶養内で働いてきたパート勤務の主婦Aさんが、今度から社会保険への加入が必要になるみたい、と夫に伝えたとき、返ってきたのはそんな一言でした。

2024年10月から、従業員51人以上の事業所では一定条件を満たすパート・アルバイトの社会保険加入が義務化されました。適用要件は週20時間以上の労働、月額賃金8.8万円以上、2ヶ月超の雇用見込み、非学生。Aさんもこの変更に伴い、社会保険加入の対象となったのです。

夫からの続く言葉は、さらに厳しいものでした。「そんなに稼ぐなら、生活費は少し落としてもいいよね」「扶養を出たり入ったりされると迷惑だ」。

結局この女性は、新しい条件でも扶養から外れないよう勤務時間を大幅に減らすことになりました。Aさんが働く店舗では、同様の理由でこの月に3名のパート従業員が一気に離職、深刻な人手不足に陥っています。

いま、全国の現場で同じような「働き控え」が広がっています。制度の変更だけではなく、それに伴う家庭内の摩擦や心理的な抵抗が、企業の人材確保を揺るがしているのです。

熟練したパート従業員の離職は、採用・教育コストの増大、サービス品質の低下、残った従業員への負担増加を招き、事業運営に深刻な影響を与えます。

さらに、50人以下の事業所についても、2035年をめどに企業規模要件が完全撤廃される予定です。具体的には、2027年10月から36人以上、2029年10月から21人以上、2032年10月から11人以上と段階的に適用範囲が拡大されます。この現象は、今後どの職場においても課題となってくるのです。

この記事では、社会保険の適用拡大に伴うパート従業員の離職増加について、主婦層が扶養から抜けることを敬遠する背景に触れつつ、事業所が取るべき具体的な対策を社会保険労務士の視点から提案します。

■主婦が扶養内から抜け出せない3つの背景
そもそも、なぜ扶養内で働くパート従業員の主婦たちは、扶養を外れようとしないのでしょうか。そこには制度の歪みはもちろん、家庭内での夫との衝突など、心理的な面でのハードルもあります。背景を主に3つに分けて考えてみます。

(1)手取り収入の逆転現象
社会保険料の負担により、収入が増えても手取り額が減ってしまう逆転現象は最大のハードルです。また、それまで健康保険は夫の被扶養者、国民年金は第3号被保険者として全く自己負担がなかった状況から、新たな負担が生じることへの心理的な抵抗感も大きいでしょう。

しかし、近年では最低賃金の急速な上昇により、パートタイム労働者の時間当たり給与も着実に増加しています。

このような賃金上昇により、130万円を少し超える程度の収入から、手取りが改善される150万円レベルまでの到達は、少し働く時間を増やすだけで十分達成可能な範囲となっています。

(2)税制・手当の制度設計の歪み
多くの企業では、従業員の配偶者が被扶養者である場合に配偶者手当(被扶養者手当・家族手当)を支給していますが、扶養から外れるとこの手当が支給されなくなり、家計に直接的な打撃となります。

この配偶者手当の喪失については、政府も課題と認識しており、配偶者の働き方に影響が及ばないような給与制度にすることを企業に呼びかけています。

また、妻の年収が増えて扶養から外れることで、夫の配偶者特別控除が段階的に減額され、夫の手取りが減ってしまうという事情もあります。

こうした制度設計の歪みが、扶養から外れるハードルを高くしているのです。

(3)家庭内での性別役割分担意識
働き控えの根本には、単なる経済的計算を超えた家庭内の心理的側面もあります。扶養から外れることを「家族の在り方の変化」として捉える夫婦が多いのです。

冒頭で紹介した「なんだか家族じゃなくなるみたい」「生活費は減らしてもいいよね」といった夫の発言がその一例です。

経済的に一家の大黒柱でありたいという男性の意識が、妻の就労拡大に対する心理的抵抗として現れることも少なくありません。それを受け、妻の側にも「家庭に波風立ててまで働きたくない」という意識を生んでしまうのです。

■事業主が取るべき具体的対策
職場においては、制度上のメリットについて情報提供するのはもちろん、従業員の心理的ハードルにも意識を向け、不安解消の機会を設けるなど、対応を工夫することが求められます。具体的には次のような対策が有効です。

・制度メリットの積極的な情報提供
社会保険加入により将来の年金額が増加し、傷病手当金や出産手当金が受け取れることを具体的な数値で示すことが重要です。

傷病手当金は、業務外の病気やケガで働けない場合に概ね月給の3分の2が支給され、通算して1年6ヶ月まで受給できます。出産手当金は、出産のため仕事を休んだ期間について同様の給付が受けられます。

社会保険の保険料は事業主との折半であり、国民年金・国民健康保険よりも有利な制度であることを強調しましょう。短期的には社会保険料の支出で手取り額が減少するかもしれませんが、10年、20年という長期的なキャリアを考えると、社会保険に加入して働く時間の上限を作らない方が、収入増・キャリアアップのチャンスが広がります。

・個別相談による不安解消と家庭内理解の促進
扶養から外れた場合の手取り試算や家計への影響を一緒にシミュレーションし、従業員の具体的な不安を解消することが重要です。キャリアコンサルタントやファイナンシャルプランナーによる個別相談の機会を設け、専門的なアドバイスを提供しましょう。

夫婦間のコミュニケーションが課題となる場合は、会社の担当者や専門家を交えた話し合いの場を設けることも検討し、家庭内の理解を深める支援を行うことが必要です。

・短時間正社員制度の導入
短時間正社員制度は、期間の定めのない労働契約を結びながら、フルタイムより短い所定労働時間で働く制度です。パートと異なり雇用期間の定めがなく、正社員と同様の福利厚生や昇給・賞与の対象となります。

この制度により、家庭や育児と両立しながら安定した雇用とキャリア形成が可能となり、主婦層にとって扶養の壁を気にせず安心して働き続けられる選択肢となります。

・多様な働き方の選択肢提供
短時間正社員制度に加えて、従業員のライフステージに応じた柔軟な働き方の選択肢を用意することが重要です。例えば、フレックスタイム制度、在宅勤務制度、時差出勤制度などを組み合わせることで、従業員が家庭の事情に応じて最適な働き方を選択できる環境を整備しましょう。

また、正社員とパートタイムの間を行き来できる制度や、勤務時間を段階的に調整できる仕組みを導入することで、従業員が人生の各段階で無理なく働き続けられる職場づくりが可能となります。

■まとめ
社会保険適用拡大は、多様な働き方の保障強化と将来の安心につながる重要な制度改革です。しかし、主婦層の「扶養から外れたくない」という意識や夫からの心理的圧力、配偶者手当の喪失、税負担の増加など家庭内外の複雑な事情は根深く、放置すれば深刻な人手不足を招く恐れがあります。

50人以下の企業は猶予期間を有効活用し、制度の正しい理解促進、個別相談の充実、柔軟な働き方の導入など多角的な対策を講じることが不可欠です。

パート従業員が年収の壁を気にせず、安心して働き続けられる職場環境づくりこそが、今後の企業競争力を左右する重要な経営課題といえるでしょう。

李怜香 社会保険労務士・産業カウンセラー・ハラスメント防止コンサルタント

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【プロフィール】
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李 怜香
社会保険労務士・産業カウンセラー・ハラスメント防止コンサルタント


岐阜県生まれ。早稲田大学卒業。1999年、宇都宮市にて李社会保険労務士事務所(現 メンタルサポートろうむ)を開業。2011年、産業カウンセラー登録。2012年、ハラスメント防止コンサルタント認定、(公財)21世紀職業財団ハラスメント防止研修客員講師に就任。2019年、健康経営エキスパートアドバイザー認定(第1期)。

官公庁から大手企業、教育機関まで幅広い分野で研修実績がある、ハラスメント対策のエキスパート。ハラスメント外部相談窓口の相談対応や、事案解決支援の経験を活かした実践的な指導には定評があり、研修受講者からの満足度は90%以上。法的知識とカウンセリングスキルを組み合わせた独自のアプローチで、職場のメンタルヘルスやハラスメント防止の分野で、企業をサポートしている。

公式サイト https://yhlee.org/wp/

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