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「70歳まで働いてもらえるのは助かる。経験もあるし、現場の背骨にもなる。」

そう感じている経営者は多いはずです。人手不足が深刻化する中、定年延長やシニア再雇用は、もはや特別な選択肢ではなくなりました。

ただ、ここに見落とされがちな致命的な盲点があります。医学的に見て「デスクに座っていられること」と「安全に働けること」は、全く意味が違うということです。

実は、シニア活用が進むほど現場で増えやすいのが転倒です。転倒は本人の痛みや不安だけでなく、休業、代替要員、労務対応を連鎖させ、組織の生産性を静かに削っていきます。

健康診断で問題がなくても、現場では一本の床のコード、数センチの段差ひとつで転倒が起きます。これは不注意というより「センサーとモーターの経年劣化」という避けようのない物理現象です。

シニア活用は、単なる人手不足対策ではありません。専門家の視点から言えば、それは「高リスク資産の運用」に近い、高度なマネジメントが求められる領域なのです。

シニア人材に安全かつ経営リスクを減らしながら働いてもらうには、会社の何を見直すべきなのでしょうか。健康経営の観点からオフィス環境へのアドバイスも行う理学療法士として考えてみたいと思います。

■健康診断A判定でも、床のコードで転ぶ理由
企業がシニアの雇用を判断するとき、一般的に見るのはスキルや判断力といったソフト面でしょう。一方で、身体というハード側の機能は、ほとんどノーチェックである場合も少なくありません。

典型的なのは「健康診断でA判定だから大丈夫」という判断。血液データ(内臓数値)はきれいでも、現場には別の負荷があります。

• 棚卸しで脚立を上り下りする
• 重い荷物を抱えて方向転換する
• 床のコードをまたぐ/段差を急いで越える

こうした日常動作の連続の中で、転倒は起きます。

「働ける」を内臓の数値だけで定義してしまうと、現場で起きる事故の説明がつかなくなります。20代の転倒は「絆創膏(すり傷)」で済みますが、65歳の転倒は「大腿骨骨折(入院3ヶ月+リハビリ半年)」という経営リスクに直結するからです。

■転倒コスト年間3兆円、企業が負うのは『現場の停滞』
米国では、高齢者の転倒による医療費が年間約3兆円に上ると報告されています(Burns et al., 2016)。日本でも同規模のコストが社会全体で発生していると推測されます。

しかし、企業経営の観点では、医療費以上に深刻なのは「現場で起きる損失」です。欠員の穴埋め、シフトの組み替え、代替要員の教育、チームの負荷増、顧客対応の遅れ。転倒一件が、こうした連鎖的なコストを生み出します。

注目すべきは、転倒リスクと身体状態の関係です。日本の研究では、虚弱な高齢労働者は、そうでない労働者に比べて転倒発生率が約2倍高いことが示されています(Matsugaki et al., 2024)。

つまり転倒は「たまたま」ではなく、身体状態というファクターで予測可能な「確率」の問題です。だからこそ、M&Aの前にデューデリジェンス(資産査定)を行うように、雇用延長時にも客観的な「身体の査定」が必要なのです。

■転倒リスクは「予備力」という物理で決まる
転倒は、本人の注意力だけでは説明できません。転びそうになった瞬間に体を立て直す力が、年齢とともに静かに落ちていくからです。

鍵になるのが、身体の「予備力」。予備力とは、多少の想定外が入っても姿勢を戻せる余裕のことです。

若いときは、足が引っかかっても反射的に踏ん張れます。視線が一瞬それてもバランスは保てます。歩きながら考えていても、足元は”勝手に処理できる”。

ところが予備力が落ちると、同じ環境でも意味が変わります。一本の床のコードが、踏ん張りの試験になる。段差ひとつが、姿勢制御の試験になる。

さらに厄介なのは、環境のノイズが一つでは終わらない点です。暗い照明、滑りやすい床、狭い通路、急がせる動線。若手なら無意識に処理できるこれらの「ノイズ」が、シニアにとっては一歩ごとに姿勢制御を強いる場面に変わります。

■採用・更新で問うべきは「条件設計」
こうした話をすると「年齢で線を引くのか」と言われるかもしれません。しかし論点は年齢ではありません。状態と条件の問題です。

採用や更新で問うべきなのは、「この人が働けるか」だけではありません。「安全に働ける条件を、会社が設計できるか」です。同じ人でも、配置と手順が変わればリスクは変わります。判断対象は個人の資質ではなく、業務設計の側にあります。

現場で必要なのは、「気をつけろ」という精神論ではありません。予備力の低下を前提に、環境と運用を組み替える発想です。

■会社がやるべきことは3つある
対策は多そうに見えますが、核は3つに絞れます。その際、順番も重要で、まず「見える化」、次に「環境」、最後に「運用」です。

(1)健康診断だけでなく運動機能診断を
健康診断は病気の有無を拾うには有効ですが、転倒リスクの把握とは別軸です。片足立ち、椅子からの立ち上がり、歩行のふらつき、握力など、短時間で確認できる項目で十分です。「血液検査は正常だが、片足立ちが10秒できない」といったリスクを可視化すること。目的は排除ではなく、適切な配置や負荷を調整するための材料を持つことです。

(2)職場のノイズを潰す
転倒は「体の状態」と「環境」が掛け算になったときに起きます。だから環境側のノイズを減らせば、同じ身体状態でも事故は減ります。大改修を前提にしなくていい。まず現場で「引っかかる」「見えにくい」「急がされる」要因を洗い出し、小さく潰していきます。

(3)教育は「予防」だけで終わらせない
多くの職場は「気をつけよう」という掛け声で終わります。しかし重要なのは、つまずいた瞬間にどう立て直すか(リカバリー)、どの動作が危ないかを、現場の標準手順に落とし込むことです。予防と同じくらい、「身体機能の維持メンテナンス」を業務時間内に組み込むことは、後から高い保険料を払うより安上がりな投資です。

■「70歳まで働ける」は、身体を預かる契約に近づく
シニアの雇用は人手不足の対策です。同時に、企業が引き受ける責任の形を変えます。

これまでの雇用は、スキルや成果を中心に評価されやすかった。しかし定年延長が進むほど、身体の予備力と職場環境の噛み合わせが、経営課題として前面に出てきます。転倒は象徴的です。本人の不注意として処理してしまえば、同じ事故が繰り返されます。状態の問題として捉え、環境と運用を設計し直せば、事故は減ります。

「70歳まで働けます」という求人は、裏を返せば「70歳になるまで、あなたの身体を預かります」という重い契約に他なりません。

シニア人材という貴重な戦力を、つまらない転倒事故で失わないために。経営者はPL(損益計算書)だけでなく、社員のフィジカルデータにも目を光らせるべきです。

その約束を精神論ではなく、設計で果たせる会社が、これからの人手不足時代に強くなる。それが、人生100年時代の経営者が果たすべき真の責任なのです。

【参考文献】
Burns, E. R., Stevens, J. A., & Lee, R. (2016). The direct costs of fatal and non-fatal falls among older adults — United States. Journal of Safety Research, 58, 99-103.
Matsugaki, R., et al. (2024). Frailty and occupational fall among elderly workers: A prospective study. Journal of Occupational Health, 66(1), uiae065. 


木城拓也 理学療法士・整体 ピラティス事業「株式会社理学ボディ」代表取締役社長


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【プロフィール 木城拓也 理学療法士・整体 ピラティス事業「株式会社理学ボディ」代表取締役社長】
kishiro
2011年に理学療法士国家試験に合格後、都内のスポーツ整形外科クリニックに勤務し、プロスポーツ選手や箱根駅伝選手などの施術を担当。そこで培った臨床経験と専門的な知識をもとに、2017年「青山筋膜整体 理学BODY」1号店を表参道に開業。翌年に株式会社理学ボディを設立し、代表取締役社長に就任する。
「最高の技術で世界中を健康に」という理念のもと、“通わせない整体”を目指した理学療法士による整体と、理学療法士監修のピラティススタジオ「ルルト」を展開し海外進出も果たす。現在では日本と東南アジアを中心に170店舗以上を運営している。

公式サイト:https://kabushikigaisya-rigakubody.co.jp/

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