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■「早く辞めた方が本人のため」という“正論”が隠すもの
「どうしてもできない……」

研修が始まる直前、参加した一人の新入社員が不安を募らせ、その場で泣き出してしまった。これは先日、ある企業の人材能力開発部で行われた研修で共有された、生々しい失敗エピソードだ。

事前に「会社説明の原稿を覚えてきてください。それを使って営業のロールプレイをしましょう」という指示が出されていたが、その新入社員は本番を前にプレッシャーに耐えかねて号泣してしまったという。

この部署の役割は、研修を通じて社員を一人前に育てていくことにある。しかし、急成長の渦中にあるその会社では深刻な人手不足が続いており、どれだけ採用しても追いつかないほどの早期離職に頭を悩ませていた。せっかく多大なコストと労力をかけて獲得した人材が、育つ前に次々と組織を去っていく。

「社員を育てること」と同時に「いかに人材を定着させるか」が至上命題であるという切実な状況は、きっと他の多くの企業にとっても全く同じではないだろうか。重い採用コストを無駄にしないためにも、育成現場での離職の引き金は何としても防がねばならない。

実際の研修現場でこのトラブルが起きたとき、メイン講師は全体の「進行時間」を気にするあまり、泣いている一人に付きっきりになるわけにはいかないと焦っていた。結果として、副講師にその子のケアを頼み、自分は「泣いてる人いるけどコレどうすんの?」と凍りついた空気が漂うまま全体の営業ロールプレイを強行するしかなかったという。スケジュールを厳守しなければならないプレッシャーの中では、これしか選択肢がないようにも思える。

しかし、この対応もひとつの引き金になってか、その新入社員はその後、「自分には営業は向いていない」と会社を辞めてしまった。

ビジネスの現場において、「ここまで追い詰められてしまうなら、そもそも営業に向いていなかったのだろう。早い段階で別の道を探した方が本人のためだ」という意見は、極めて現実的で“正論”のようにも思える。膨大な採用コストの損失に頭を抱えながらも、私たちはどこかで「本人の適性のなさ」に理由を求めて諦めてしまう。

だが、そうした「効率重視の正解」や「安易な適性判断」にこそ、実は、早期離職を加速させる最大の落とし穴が存在する。

指導者が目の前の相手に対して、単に「成果や正論を押し付ける」のを止め、その問題行動の「背景にあるもの」に手を伸ばせるかどうか。その視点を持って現場をもう一度見つめ直す。これこそが、人材の流出を食い止め、定着へと導く決定的なパラダイムシフトなのだ。

本稿では、この最悪の結果に終わってしまった事例を再現し、全員で解決策を検証した「フォーラムシアター研修(実際の失敗談をベースに全員で改善案を演じながら検証するシミュレーション)」での一コマから、現場の空気を壊さずに個を救う、実用的かつ合理的な対話の「技術」について考えてみたい。

■試行錯誤の限界を突破した、ベテラン社員の関わり方の変化
この「新入社員が泣き出してしまった失敗事例」を教材として、人材能力開発部のメンバー全員で改善策を検証するシミュレーションが行われた。

検証の場(トライアル)では、多くの講師が様々な前向きなアプローチを試みていた。「どのくらいならできそう?」「会社説明は覚えてきた?」と、本人がいま“できること”に目を向けさせ、ハードルを下げて安心させようという試行錯誤が繰り返された。

しかし、今回のケースにおいては、どれだけ優しく声をかけても新入社員の不安の波は収まらず、泣き止む気配はない。誰もが「やはりこの状況を現場で立て直すのは難しいのだろうか……」と諦めかけた、その時だった。あるベテラン社員が関わり方を変えて介入を試みると、現場の空気は一変した。

そのベテラン社員は、トラブルの渦中へ割り込むと同時に、まず副講師に対してこう指示を出した。

「研修開始直前までの数分間、他の受講生一人ひとりに個別で話しかけてほしい」

最初は指示された副講師も、緊迫したこの状況で「なぜそんなことをするのか」目的が分からなかったという。だが、この一言が現場の構造を劇的に変えた。他の受講生たちは副講師から個別に話しかけることで、自然と自分自身の話題や準備に集中せざるを得なくなる。

結果として、泣いている新入社員から「あえて周囲の気を逸らす」形になり、周囲の不安の連鎖が食い止められたのだ。誰も孤立させず、かつ場が止まるのを防ぐ。それだけで、張り詰めていた現場の空気は明らかに変わり始めた。

その上で、メイン講師を演じるベテラン社員自身は、泣いている新入社員のもとへ歩み寄った。まず「どうした?」と尋ね、相手が不安なことを伝えると、何が不安なのかを深刻にならずに丁寧に聴き出していった。体勢を低くし目線を合わせ「緊張するよねー、最初は無理なのなんて普通普通!」とカラッとした明るさで寄り添いながら、少し距離が縮まったのを見計らい、冗談交じりの雑談で相手の気を巧みに逸らしながら「大丈夫!いけるいけるー」と笑顔で明るく励ました。

さらに、「営業部に戻ったあとに上司から怒られそうで……」と本音を漏らした新入社員に対して、
「そんなことしたら、自分がその人に厳しく言っておくから。だから大丈夫だよ」と、自分が盾になって絶対に守るという強い態度を示して背中を押した。

新入社員だって、決して泣きたくて泣いているわけではなかったはずだ。そこには「早く原稿を覚えなきゃ」「でもできない」「周りに迷惑をかけているのではないか」「上司から叱責を受ける」という強烈なプレッシャーがあったに違いない。

ベテラン社員の見事だった点は、泣いている本人が周囲の目を気にしなくて済むよう先回りで配慮し、圧倒的な心理的安全性を担保した、視野の広い場づくりを瞬時に設計したことだ。

もちろん、これは実際の現場ではなく、当時の状況を再現した疑似的なシミュレーションの場での出来事である。しかし、ベテラン社員の関わり方によって、その場は「これこそが有効なアプローチだ」という強い納得感で満たされていった。

受講生役は、その場で落ち込み続けることなく、「落ち着いて研修を受講してみよう」という前向きな姿勢を取り戻し、流れが明確に変わった。当然、周囲の受講生役に不安が広がることもなかった。

「全体を進めなければならない」という強迫観念に駆られている講師には、なかなか真似のできない時間だったかもしれない。しかし、この数分間の「丁寧な寄り添いと、盾になる覚悟」、そして副講師による「周囲のコントロール」が合わさったとき、現場の空気は確実に溶けていった。誰も置き去りにせず、かつ全体の進行を破綻させない。それこそが、採用コストの重みを知る企業において、極めて合理的なマネジメントの技術と言えるのではないだろうか。

■失敗を共有した講師が魅せた、もう一つの見事なアプローチ
このシミュレーション研修のさらに面白いところは、「できる人/できない人」の役割が固定されていなかった点だ。

別のケーススタディで、今度は「著しく態度や姿勢が悪い中途新人への対応」が課題となった。

実は、先ほどの鮮やかな解決策を見せたベテラン社員は、「真面目に取り組む意思がある受講生」の力になることは得意な反面、「やる気がなさそう、不真面目に見える受講生」に対しては、むしろ「個別に呼び出してかなり厳しく注意をすべきではないか」という強い気持ちを抱くタイプでもあった。厳しい指導については意見が分かれるところだと思うが、指導された側からすれば内心の反発が生まれやすいことは間違いない。

そこで見事な解決策を提示したのは、さきほどのケースで「新入社員を泣かせてしまった」という手痛い失敗を自らシェアしてくれた、あの元の講師であった。その講師は、相手の態度の悪さを頭ごなしに責めるのではない。疑似シミュレーションの場で、お互いの尊厳を傷つけずに誠実に向き合う、アサーティブ(相手を尊重しながら、自分の伝えるべきことも伝える姿勢)なアプローチを試みようと、次のような問いかけをとった。

「あの、えっと、どこか、どこか、体の調子でも悪いのですか?」

足を崩してふんぞり返っていた中途新人の受講生役は拍子抜けしたように、「いや、別にそういうわけでは……少し腰が痛くて」と、自ら背景にある事情を話し始めた。それは事実であったかもしれないし、あるいはその場をしのぐための言い訳だったかもしれない。

だが重要なのは、頭ごなしに「注意」するのではなく、この講師が相手を気遣う「質問」から入ったことで、相手を初手から悪者にしなかった点である。

「そうなんですね、無理なさらないでください」と、講師は相手の事情に対して寄り添う言葉を選んだ。

「どうして質問から始めたのですか?」と後で尋ねると、「何か理由があるかなと思ったので。聞いてみて良かったです」という答えが返ってきた。お人好しすぎるのでは、とも思える回答だが、何かミスや失礼があったとき、いきなり注意するのではなく、まず話を聞く姿勢を示したことは、緊張の中にある周囲の新入社員にとっても心理的安全につながるはずだ。

その講師のまっすぐに気遣う雰囲気も相まって、ふんぞり返っていた受講生役の、学ぶことへの拒絶の空気は一瞬で和らいだ。相手を信じて関心を持つ姿勢が、自発的な行動改善へと滑らかにつながったのである。

これにはベテラン社員も、「自分には無かった視点だった。選択肢が増えた」と驚いていた。

■「背景を見なくなる瞬間」に、ハラスメントは生まれる
これら2つの事例に共通しているのは、対話において「相手を最初からジャッジ(判定)していない」という決定的なスタンスである。

演劇には、相手の表現を一度まるごと受け止め、そこからアイデアを乗せて対話を広げていく「YES, AND」という対話の基本ルールがある。彼らが疑似シミュレーションの現場で無意識のうちに実践していたのも、まさにこの技術だった。

相手が差し出してきた「泣き出してしまうほどの不安」や「ふんぞり返った悪い姿勢」という現状を、まずはありのまま受け止める(YES)。その上で、安心感や気遣いという自分のアプローチを重ねて対話を展開していく(AND)。

私たちは、目の前の相手が期待通りのパフォーマンスを出さないとき、あるいは「本番直前に泣き出す」「著しく態度や姿勢が悪い」といった、一見問題行動と思われてしまうような振る舞いを目にしたとき、その背景に思いを馳せることを止め、即座に「適性」の有無や「良し悪し」をジャッジしてしまいがちだ。判定の限界を感じた瞬間、「やる気がない」「メンタルが弱すぎる」とラベルを貼り、断罪してしまう。

しかし、ハラスメントが発生したり、今回のように早期離職という最悪の結果を招いたりする本質的な原因は、この「背景を見なくなる瞬間」にこそ潜んでいるのではないだろうか。

目に見える行動の裏には、本人なりの深い緊張や、未知の業務への恐怖、孤立感、あるいは「周りに迷惑をかけている」という強い焦り、身体的な痛みが隠れていることが少なくない。相手の表面的なアウトプットをただ責めるのではない。その裏にある事情に手を伸ばそうとする態度こそが、決裂しそうな対話をつなぎ止める命綱になるのだと思う。

■甘やかしではない――チームで補完し合う「合理的なビジネススキル」
人間は「自分のことを分かってくれている」と思えるだけで救われ、逆に「誰も分かってくれない」と孤立したときに最も深い苦痛を感じる。これは心理学や脳科学の研究でも、孤立による心の痛みが物理的な激痛と同じメカニズムで処理されていることで証明されているが、こうした人間の心理の本質は、企業の育成現場、日々の職場環境においても全く同じことが言える。

相手を「分かろうとする力」や、その行動の「背景に手を伸ばす技術」、そしてアサーティブな関わりが根づいた組織とは、決してメンバーを甘やかすためのものではない。現場のマネジメントを円滑にし、予期せぬ離職やハラスメントを防ぐための、極めて実用的かつ合理的な「ビジネススキル(技術)」である。

重い採用コストを無駄にせず、基本の型を再現させるロールプレイの限界を補うためにも、こうした「関わり方の選択肢」をチーム内に増やしていくアプローチは、困難な事例に対して極めて有効だ。

さらに重要なのは、こうしたスキルは一部の「人間力がある優しいリーダー」の個人的な才能に依存するものではない、ということだ。今回のシミュレーション研修がそうであったように、あるケースでは失敗した講師が、別のケースではベテランの盲点を補うような鮮やかな解決策を提示することもある。

「できる人/できない人」の役割を固定せず、それぞれの得意分野や違うやり方をオープンに共有し、現場で補完し、学び合う。そうしてお互いの良さを肌で感じる経験こそが、結果として組織の強固なチームビルディングへと繋がっていくのだろう。

このような「正論だけでは解決しない現場のリアル」と「背景に手を伸ばす対話の技術」を、頭での理解を超えて体感的に学べる場を、これからの人材開発の現場にますます広げていく必要があると感じている。


葛木英(くずき・あきら) 脚本家・演出家・Stage Connect代表


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■プロフィール 葛木英(くずき・あきら) 脚本家・演出家・Stage Connect代表
kuzuki
25年のキャリアを持つ現役脚本家。エンターテインメント作品の他、応用演劇の手法“フォーラムシアター”を使った少年院での更生支援や、行政の人権ワークショップ、企業の組織開発研修を実践。表現コミュニケーション教育の持つ「答えのない世界で生き抜く力」を、具体的なワークショップや研修プログラムへと落とし込む。パワハラ予防士、折れない心を育てるいのちの授業認定講師。いしかわ観光特使。

公式サイト http://www.stage-connect.com
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