![]() ここで、意外な数字を一つ。企業が抱える健康関連コストのうち、欠勤による損失はわずか4.4%。最大の損失(77.9%)は、休んだ人ではなく、不調を抱えたまま働き続ける人から生まれています(参考:データヘルス・健康経営を推進するためのコラボヘルスガイドライン 厚生労働省保険局 2017/07)。「体調が悪いなら休むべきか、在宅で働くべきか」という論争の足元で、本当のコストはまったく別の場所に潜んでいるのです。 世間の反応は、きれいに二つに割れます。「体調が悪いなら休むべきで、低いパフォーマンスのまま働くのはよくない」という声と、「在宅で働けるのに認めない会社のほうが時代遅れだ」という声です。けれど、この数字が示すように、本当の論点はそこにはありません。問うべきは「出社か在宅か」ではなく、「働く」と「休む」の境界が、知らぬ間に消えていないか、です。 在宅勤務のどこが優れていて、それが「当たり前」になると何が起きるのか。そして、最初に損をするのは誰なのか。上場企業からベンチャーまで、数多くの企業で在宅勤務のルールづくりに携わってきた社労士の立場から、考えてみたいと思います。 ■在宅勤務は、もう特別な働き方ではない まず確認しておくと、在宅勤務は社員にも会社にも強力な武器です。社員は通勤の負担や混雑を避けられ、「軽い不調なら在宅で働ける」という選択肢を持てる。会社も、通勤費やオフィスの固定費を抑えられ、遠方の人材を採用でき、柔軟な働き方で人を集めやすい。 総務省の調査でも、テレワークの導入目的の上位には「ワークライフバランスの向上」や「移動時間の短縮・混雑回避」が並びます。在宅勤務には、公的にも認められた確かな価値があるのです(参考:令和6年通信利用動向調査 総務省 2025/05/30)。 なかでも見落とされがちなのが、「通勤さえなければ働けるくらいの、微妙な体調」のときです。電車に乗るのはつらいけれど、家でならいつもどおり手を動かせる。そんなとき在宅勤務という選択肢があれば、社員は無理なく働けて、会社も戦力を失わずにすむ。よくできた仕組みです。 そもそも、体調不良のときに在宅勤務をしてはいけない、という法律もありません。感染症対策や軽い不調への対応として出社を避けることは、むしろ合理的な判断です。「体調不良で在宅勤務」という選択そのものを、頭から否定する理由はどこにもありません。 一方で、「家で本当に働いているのか」という疑いも、根強くあります。目の前にいない相手の働きぶりは見えにくく、管理する側が不安を抱くのはもっともです。 ただ、これは在宅勤務に固有の問題ではありません。成果や勤怠をどう把握するかという、マネジメント設計の問題です。「見えないから不安」を「だから禁止」へ直結させてしまうと、せっかくの選択肢ごと手放すことになります。むしろ本当に警戒すべき「見えないもの」は、サボりではなく、別のところにあります。 ■「見えない皆勤」という落とし穴 問題は、この便利な働き方が「当たり前」になったあとに起きます。 「いつでも在宅で働ける」が常識になると、「体調が悪くても、在宅でなら働けるはず」という空気が生まれます。周りもやっている、休むと申し訳ない、人手も足りない。こうしてやがて「選べる自由」は、静かに「休めない義務」へと姿を変えていきます。 実際、こんな流れをよく見かけます。最初は一人が「軽い風邪なので在宅で」と始める。やがて周りも倣い、「熱があっても在宅でなら」が珍しくなくなる。気づけば、高い熱を押して画面の前に座る人が出てくる。誰かが強制したわけではありません。けれど「みんなやっている」という空気は、ときに、いちばん断りにくい命令になるのです。 こうして生まれるのが、私が「見えない皆勤」と呼んでいる状態です。体調を崩しても、在宅で働けば欠勤にはなりません。勤怠の記録上は、休みのない皆勤。けれどその中身は、不調を抱えたまま、本来の力を出せずに働き続ける毎日です。皆勤賞といえば美徳の象徴でしたが、この皆勤は誰の目にも見えず、誰にも褒められず、本人と会社を静かに消耗させていきます。 ■会社の損失の8割は「休まない社員」から生まれる 冒頭の数字に戻ります。この「働いてはいるのに、生産性が落ちている状態」はプレゼンティーズムと呼ばれ、前述した厚生労働省の推計では、企業の健康関連の総コストのうち77.9%を占めます。医療費は15.7%、欠勤(アブセンティーズム)はわずか4.4%です。 言いかえれば、社員に休んでもらうことのコストは、思っているほど大きくありません。本当に高くつくのは、不調を抱えた人が無理を続け、力を出しきれないまま働くことのほうです。多くの会社は欠勤や残業時間ばかりに目を向け、この最大の損失を見落としています。 「体調不良でも在宅で」を当たり前にするとは、この「いちばん高くつく働き方」を職場の標準に据えるということです。誤解のないように言えば、在宅なら通勤の負担は減り、合間に横になることもできる。出社して無理を続けるよりは、ずっとましでしょう。けれど、それが「常識」になれば、無理を押して働く人の母数そのものが増えていきます。一人ひとりの負担は軽くなっても、職場全体の損失はふくらむ──そんな逆転が、静かに進みます。 しかも「見えない皆勤」は、労務管理の目もすり抜けます。「合間に休みながら、なんとかやっていました」という働き方は、労働時間の記録を曖昧にします。働いた時間が把握できなければ、気づかぬうちに未払い残業が生まれ、後のトラブルにつながります。会社には社員の健康に配慮する義務(安全配慮義務)がありますが、肝心の健康状態そのものが見えなくなるのです。 そして、最初に損をするのは、たいてい、いちばん真面目な社員です。責任感が強く、同僚思いの人ほど「このくらいなら在宅で」と無理を重ねます。本来いちばん守られるべき人が、いちばん休めなくなる。これが、この働き方の常識化にいったん立ち止まりたい、いちばんの理由です。 ■「在宅なら働ける」と「本当は休むべき」を、誰が線引きするのか この働き方をめぐっては、いろいろな本音が交わされています。少し、その声に耳を傾けてみます。 「丸一日休むほどではない。でも、ひどい咳や重い生理痛、病み上がりやおなかの不調を抱えて満員電車に乗るのはつらい。せめて移動や対面の負担だけでも減らせたら助かる」。そんな声があります。もっともだと思います。働く意欲はあるのに、通勤や気疲れだけが重い。そこを在宅でやわらげられるなら、これ以上ない使い方です。 「休んでしまえば進捗はゼロ。でも家でなら、たとえ三割でも前に進められる。そのほうが、あとのキャッチアップがずっと楽になる。ゼロか百かで決めないでほしい」。この声にも、同感です。在宅勤務の価値は、まさにこの「三割」を拾えるところにあります。休むか働くかの二択で迫れば、その三割はまるごと失われます。 一方で、「体調が悪いなら、それは働けない状態だ。無理せず休むべきだ」という声もあります。これもまた、正論です。 つまり、答えは人によって、その日の状態によって違います。だからこそ、その線引きを個人の善意や上司のさじ加減に任せてはいけないのです。善意に任せた線引きこそが、「見えない皆勤」の温床になります。 付け加えると、在宅勤務は「就業場所」という労働条件の一つです。はじめから在宅前提で契約していない限り、社員が一方的に「在宅で働きます」と決められるものではありません。逆に、会社が一方的に押し付けてよいものでもない。どちらか一方の都合で決まらないからこそ、どんなときに認め、どんなときに認めないのかを、あらかじめ取り決めておく必要があるのです。 では、何を基準に線を引くのか。症状の重さで決めようとすると、際限がなくなります。私が勧めているのは、「本来のパフォーマンスを出せるかどうか」という基準です。 通勤や対面の負担さえ外せば、いつもどおり働けるなら、在宅を認める。そもそも仕事に向き合える状態ではないなら、休む。怪我で通勤はできないがデスクワークは平気、というのは前者の典型です。高熱でもうろうとしているなら、迷わず後者です。この軸なら、咳でも生理痛でも、判断の物差しは一つで済みます。 ■会社と社員、それぞれにできること では、どうすればよいか。会社と社員、それぞれにできることがあります。 会社にできるのは、在宅勤務のルールを言葉にして共有することです。具体的には、次のような項目を在宅勤務規程に落とし込み、社員に周知しておきます。 ・在宅勤務の対象者と許可基準(例:入社3か月以上、自宅の執務環境が適正など) ・体調不良時の取り扱い(認める基準と、認めない基準の両方) ・私用を理由とする在宅勤務の扱い(事前申請制にするかなど) ・光熱費や通信費の負担、通勤手当の計算方法 たとえば体調不良時については、「原則として体調不良を理由とする在宅勤務は認めない。ただし、業務に支障がないと会社が認めた場合(例:怪我で外出は難しいがデスクワークは無理なくできる場合)は許可する」といった形で基準を具体的に示しておくと、判断のばらつきを防げます。 社員の側にできることもあります。在宅勤務を希望するなら、具体的な症状と、在宅でできる業務の内容を、はっきり伝えることです。そして、本当に体調が優れず、いつもの仕事ができないときは、無理をせず堂々と休むことです。在宅勤務は働く場所を変えるだけで、仕事の質まで下げてよいわけではありません。休む勇気もまた、立派な責任の果たし方です。 ■まとめ 在宅勤務は、選択肢である限り、社員を助けます。けれど「黙認された常識」になると、いつのまにか「休めない義務」に変わり、勤怠簿の上だけ健やかな「見えない皆勤」を生み出します。だから、最初に守るべき線は「出社か在宅か」ではありません。「働くか、休むか」の線であり、何より「きちんと休む権利」のほうです。 「体調不良で在宅勤務」が生まれる背景には、社員の責任感や同僚への思いやり、会社への愛着があります。人手が足りず、休みたくても休めない事情もあるでしょう。 在宅勤務に罪はありません。罪があるとすれば、便利さに甘えて、ルールを曖昧なまま放置してしまうことのほうです。 善意に頼り切らず、「働く」と「休む」の間に、きちんと線を引く。まっすぐ休める職場だけが、「見えない皆勤」と無縁でいられます。それが、この便利な働き方を、本当の意味で「やさしい働き方」に変えていくのだと思います。 桐生由紀 社会保険労務士 【関連記事】 ■吹田市職員事件から学ぶ、経営者が知るべき"逆パワハラ"の新リスク (桐生由紀 社会保険労務士) https://sharescafe.net/63205888-20260513.html ■体調不良で欠勤。これって労働契約違反なの? 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