![]() 患者は50代女性で、手術前は通常の生活を送っていたが、手術後は手足が動かず、自発呼吸ができない状態となり、人工呼吸器による管理が続いていると報じられている(参考:脳腫瘍摘出術中の誤認による摘出部位誤り事例について 京都大学医学部附属病院 2026/08/07) 。 執刀したのは医師として20年以上の経験があり、同様の症例を約100件経験していた40代の医師だった。 さらに気になる事実がある。手術中、摘出した腫瘍と思われる組織について病理検査が2回行われ、いずれも腫瘍が確認されなかった。それでも手術は続けられた。記者会見で脳神経外科の荒川芳輝診療科長は、経験から来る「慢心」だったのかと問われ、「だと思います」と答えている。 では、今回の教訓は「ベテラン医師も慢心しないよう注意する」ことなのだろうか。もう一つ先の問題を考える必要がある。経験豊富な医師が判断を誤った時、その判断を止める「副操縦士」は手術室にいるのか。医療制度や患者安全の仕組みを調べてきた独立研究者として、個人の注意力ではなく安全システムの側から考えたい。 ■583人が死亡した事故にも、異常に気づいた人はいた 1977年3月27日、スペイン領テネリフェ島のロス・ロデオス空港で、KLMとパンアメリカン航空のボーイング747同士が滑走路上で衝突した。死者583人。現在も航空史上最悪の死者数を出した事故として知られている。 事故には視界不良、空港の混雑、無線通信の混乱など複数の要因が重なっていた。安全を考えるうえで注目したいのは、KLM機の操縦室である。航空機関士は、パンナム機がまだ滑走路上にいるのではないかと疑問を持ち、機長に確認した。聞き返されたため、もう一度確認した。しかし機長は問題ないと判断した。その約13秒後、2機は衝突した。 つまり、危険に気づく人がいれば事故を防げるとは限らない。複数の人間がいるだけでも足りない。異なる情報が出た時に、それまでの判断を問い直し、必要なら実際の行動を止められなければならない。 航空業界では1970年代末から80年代初頭にかけて、CRM(Crew Resource Management)という考え方が発展した。 発想の出発点は、絶対に間違えない機長を作ることではない。機長も間違える。だから副操縦士をはじめとする乗員が情報を共有し、互いの判断や操作を監視する。一人の優秀さだけに安全を任せず、チームとして間違いを事故にしない。そこに重要な発想の転換がある。 ■医療には「コメディカル」がいる。では「副操縦士」はいるのか 日本では、医師以外の医療専門職を「コメディカル」と呼んできた。 手術室にも執刀医一人だけがいるわけではない。助手の医師、麻酔科医、看護師らがいる。病理医のように、手術室の外から別系統の情報を提供する専門職もいる。厚生労働省も、多様な医療スタッフが専門性を生かして連携・補完する「チーム医療」を推進してきた。 ただし、コメディカルと航空のco-pilot、副操縦士は同じものではない。副操縦士の役割は機長を手伝うだけではない。機長の判断や操作を監視することも、安全上の重要な役割である。 今回の事故も、単純に「人が足りなかった」とは言えない。報道では複数の医師が手術に立ち会っていたとされ、事故後、京大病院は脳腫瘍摘出手術で複数人による確認を徹底する対策を始めている。これは重要な対策だ。 しかし、テネリフェの操縦室にも複数の乗員はいた。危険を疑った人もいた。それでも止まらなかった。安全を左右するのは、何人で確認するかだけではない。確認した結果が食い違った時、次に何が起きるかである。 ■異常は「無視」されるとは限らない 今回の病理検査についても、腫瘍が確認されないという結果を執刀医が単純に無視した、と考えるのは正確ではない。報道によれば、執刀医は腫瘍の端を採取したため、検体に腫瘍細胞が含まれていなかった可能性を考えて手術を続けたという。 目の前の組織は腫瘍に見える。一方、病理検査では腫瘍が確認されない。二つの情報が食い違った。 そこで、病理結果によってそれまでの判断を捨てるのではなく、「腫瘍の端を採ったためかもしれない」という説明によって、従来の判断を維持したことになる。 ここは医療安全を考えるうえで重要である。異常な情報は、必ずしも無視されるわけではない。もっともらしい説明によって、それまでの判断の中に吸収されることもある。 だから「異常に気づく」だけでは足りない。異常な情報と従来の判断が衝突した時、いったん立ち止まって再評価する仕組みが必要になる。 病理医は手術室の副操縦士ではない。手元に届いた組織について、術者とは別系統の情報を出す専門家である。問題は、その情報を手術チームがどう扱うかだ。 ■「複数人で確認」のその先へ 医療にも、異論を個人の勇気だけに任せない考え方はある。 米国の医療研究・品質庁AHRQが提供するTeamSTEPPSには、「Two-Challenge Rule」という手法がある。安全上の懸念を伝えても解消されなければ再度明確に伝え、それでも解決しなければ対応を一段上げる。 大切なのは「勇気を出して偉い先生に意見を言おう」という精神論ではなく、最初の指摘が通らなかった後に何をするかまで決めていることだ。 もちろん、Two-Challenge Ruleの「2回」と、今回の病理検査が2回だったことに直接の関係はない。病理で2回腫瘍が確認されなかったから、直ちに手術を中止すべきだった、と外部から断定することもできない。手術を止めること自体にも負担があり、停止が常に安全側になるとは限らないからだ。 だからこそ、どのような情報の食い違いが起きたら再評価へ移るのかを、その場の個人判断だけに委ねず、あらかじめ考えておく意味がある。 日本でも医療安全の仕組み自体がないわけではない。特に高度な医療を担う特定機能病院では、過去の重大事故を受けて安全管理体制が整備されてきた。京都大学医学部附属病院も特定機能病院である。 さらに厚生労働省の検討会では2025年、重大事例が重なった場合の「診療に介入する権限や記録」を明文化すべきではないかとの議論が行われ、重大事象では特定の医療技術の一時停止を含む対応プロセスを明確にする方向性が示された(参考:第25回 特定機能病院及び地域医療支援病院のあり方に関する検討会厚生労働省 2025/06/10)。 つまり、次に問うべきなのは安全管理組織が「あるか」ではない。必要な瞬間に、仕組みが「作動するか」である。京大病院が事故後に始めた複数人による確認も、その一歩だろう。 例えば、術中所見と術前画像、病理など別系統の情報が一定の条件で食い違った場合には、通常の進行をいったん保留する。画像や手術位置、検査結果を再確認し、必要に応じて別の専門医とも協議する。そのうえで、なぜ手術を続けてよいのかを複数人で確認してから再開する。 もちろん、手術を止めること自体にも負担がある。だから「異常があれば何でも止める」のではなく、どの不一致が生じたら通常進行から再評価へ移るのかを事前に決めておくことに意味がある。 「確認する人数」の次には、「食い違った後の手順」が必要になる。 では、手術室の副操縦士は誰なのか。特定の職種ではない。異常を拾い、別系統の情報と照合し、必要なら執刀医の判断をいったん保留できる仕組みそのものが、手術室の「副操縦士機能」だと私は考える。 京大病院の事故調査で知りたいのは、「慢心があったか」だけではない。複数の医師がいて、病理という別系統の情報も入っていた。それでも、なぜ判断を止められなかったのか。そして次に同じような情報の食い違いが起きた時、誰かの勇気ではなく、仕組みとして立ち止まるために何を変えるのか。 航空事故が教えてきたのは、人を増やすだけでは安全にならないということである。安全を決めるのは、誰がそこにいるかではない。異常が起きた時、仕組みが本当に作動するかである。 【参考】 テレビ朝日「京大病院 脳腫瘍手術で誤って摘出 患者は自ら呼吸できず重篤に」2026/08/07 テレビ朝日「ベテラン医師執刀も“慢心”か 患者は自ら呼吸できず…京大病院『想定外の医療事故』」2026/08/08 Federal Aviation Administration “Boeing 747-206B and Boeing 747-121” Agency for Healthcare Research and Quality “TeamSTEPPS Tools” Agency for Healthcare Research and Quality “Two-Challenge Rule” 厚生労働省「特定機能病院及び地域医療支援病院のあり方に関する検討会」 九条丈二 独立研究者 【関連記事】 ■「玄米で認知症リスク低下」はどこまで本当か? 大学プレスリリースを読む5つのポイント (九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63431863-20260823.html ■「同時にやっている」は勘違い。マルチタスクが脳を疲弊させるこれだけの理由 (西川晶子 精神科医) https://sharescafe.net/63425434-20260820.html ■「ヒステリックな女性管理職」が生まれるにはワケがある (細木聡子 経営コンサルタント) https://sharescafe.net/63425361-20260820.html ■110万円の家賃を払う板野友美さんとヤクルト高橋奎二さんの判断が正しい理由。(中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/62674731-20250930.html ■世帯年収1560万円の共働き夫婦は、9540万円の湾岸タワーマンションを買えるのか? その1・生活費は800万? (中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/61186482-20240125.html ■プロフィール 九条丈二 独立研究者 医療制度、公衆衛生、科学研究を中心に、制度や組織がどのようなインセンティブによって動き、なぜ問題を修正できないことがあるのかを研究・執筆している。行政資料、統計、学術論文などの一次資料を用いた検証を重視し、医療政策、感染症対策、研究評価、AIと学術、医療安全、安全保障などを扱う。アゴラ、note等で論考を発表し、英文学術誌への投稿やPubPeerでの公開後査読にも取り組む。 公式サイト: https://georgekujo.com アゴラ: https://agora-web.jp/archives/author/george_kujo note: https://note.com/g_kujo_ir @g_kujo_ir X: https://x.com/cavid19w @cavid19w ORCID: https://orcid.org/0009-0006-6864-0145 シェアーズカフェ・オンラインからのお知らせ ■シェアーズカフェ・オンラインは2014年から国内最大のポータルサイト・Yahoo!ニュースに掲載記事を配信しています ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家の書き手を募集しています。 ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家向けに執筆指導を行っています。 ■シェアーズカフェ・オンラインを運営するシェアーズカフェは住宅・保険・投資・家計管理・年金など、個人向けの相談・レッスンを提供しています。編集長で「保険を売らないFP」の中嶋が対応します。 |

