![]() 製造元の日本イーライリリーは2日後、異例の声明を発表した。同社は、日本のマンジャロの薬価はすでにG7諸国で最も低い水準にあり、今回の引き下げは日本市場の予見可能性を損ない、将来の投資や新薬へのアクセスにも影響しかねないと主張している。 社会制度・政策を研究する立場から見ると、今回注目すべきなのはマンジャロという薬そのものより、薬価に「新薬の価値評価」と「保険財政の調整」という二つの役割を持たせている制度設計である。 薬が安くなれば、患者や医療保険には良いことのように見える。しかし薬価は、単なる商品の値札ではない。マンジャロの価格が発売時に引き上げられ、3年後に25%下げられたのは、この二つの役割が順番に働いたためだ。 2023年、マンジャロ5mgは比較薬をもとに2,751円と算定された。高い有効性が評価され、10%の有用性加算によって3,026円となり、さらに外国平均価格調整によって3,848円となった。 それが2026年には2,886円となった。現在の薬価は、外国価格との調整を行う前の3,026円さえ下回っている。 この記事では、この逆転がなぜ起きたのかを、薬価が持つ二つの役割から見ていく。薬価は保険料や税から支払われる一方、価格設定は日本への新薬導入にも関わる。マンジャロを使わない人にも無関係な話ではない。 現在の薬価は、発売時に外国価格との調整を行う前の3,026円さえ下回った。 同じ薬なのに、なぜ一度は価格を引き上げ、今度は大幅に下げるのだろうか。 ■発売時には「新薬としての価値」を評価した 日本では、保険診療で使う医薬品の価格を製薬会社が自由に決めるわけではない。国が薬価を決める。 マンジャロの場合、2023年の算定では2型糖尿病治療薬のオゼンピックが比較対象になった。5mgは2,751円と算定された後、国内外の臨床試験で比較薬より高い有効性が示されたことなどから10%の有用性加算が認められ、3,026円となった。さらに外国平均価格調整が行われ、3,848円となった。 当時の厚労省資料では5mgの英国価格は円換算で7,840円だった。米国価格は英国価格との差が大きかったため、外国平均価格の計算から除外されている(参照・新医薬品の薬価算定について 厚生労働省 2023/03/08)。 発売時に働いたのは、薬価の一つ目の役割である「新薬の価値評価」だ。 従来薬と比べた有用性や海外価格とのバランスを見て、発売時の薬価を決めたのである。 そして薬価には、もう一つ「医療保険から支払う総額を調整する役割」がある。 ■薬の価値が同じでも「価格×患者数」は膨らむ 2026年に働いたのは、薬価の二つ目の役割である「医療保険から支払う総額の調整」だ。 2023年の薬価算定時、ピーク時の予測患者数は24万人だった。販売額は367億円と見込まれていた。 実際の市場はそれを大きく上回った。 日本には、薬が想定以上に売れて医療保険から支払う総額が膨らんだ場合、価格を下げる仕組みがある。 2023年当時にも、年間販売額が1,000億円を超えて1,500億円以下、かつ基準年間販売額の1.5倍以上になった薬について、最大25%価格を引き下げる「市場拡大再算定の特例」が存在していた。 考え方は分かりやすい。仮に1万円の薬を1万人が使えば総額1億円だが、10万人なら10億円になる。患者数が増えても薬そのものの効果は変わらない。しかし、医療保険から支払われる総額は増える。 「薬そのものをいくらと評価するか」と「社会全体でいくら支払うか」は別の問題なのである。 ■「ダイエットで売れたから25%値下げ」ではない 今回の25%引き下げは、ダイエット目的の自由診療で売れたことを理由にしたものではない。 マンジャロは美容や痩身目的の自由診療でも広く知られているが、厚労省は今回、NDBという保険診療のレセプトデータを使って価格調整の対象になるかを判定した。 従来の薬価調査では、卸から医療機関へ販売された数量を見るため、それが保険診療で使われたのか、自由診療で使われたのかを区別できないという問題があった。 2026年度の薬価制度改革では、販売額が大きく、保険診療外での使用が一定数見込まれる薬について、NDB、つまり保険診療のレセプトデータで販売額を把握する仕組みが導入された。 2025年12月診療分のNDBを確認した結果、マンジャロが「持続可能性特例価格調整」の要件に該当したと厚労省は2026年5月の中医協で報告した(参照・中央社会保険医療協議会総会 第650回議事録 厚生労働省 2026/05/13)。 自由診療分を理由に保険薬価を下げたのではなく、保険診療分を取り出して見ても価格調整の条件を満たしていたのである。 ■保険財政を守る仕組みがメーカーの予見可能性と衝突する 自由診療分を除き、保険診療で実際に使われた分だけを見る方が、医療保険財政を調整するという制度の目的には合っている。 ただし、そのための2026年度改革は、メーカー側から見れば発売後のルール変更でもあった。 年間1,000億円超などの場合に最大25%引き下げる基本ルールは、マンジャロ発売時から存在していた。 一方、2026年度改革では、保険外使用が見込まれる薬についてNDBを使い、効能追加がなくても、通常の薬価改定を待たずに持続可能性特例価格調整を適用できるようになった。 リリーが批判しているのはこちらだ。 同社は、今回の引き下げが「想定されていた時期よりも大きく前倒し」で行われたとし、日本では上市後に適用される薬価制度のルールが十分な予告なく変更されることがあり、投資の予見可能性を損なうと主張している。(参照・マンジャロの大幅な薬価引き下げに対する声明 日本イーライリリー 2026/08/03) 国から見れば、保険財政への影響をより正確に測るための制度改善。メーカーから見れば、発売後の制度変更による想定より早い値下げ。同じ制度変更でも評価は逆になる。 ■円安とインフレも薬価の「実質価値」を下げる リリーは声明で、日本のマンジャロ薬価はすでにG7で最も低い水準だったと主張している。 各国では公定価格や実際の取引価格、保険制度が異なる。したがって本稿では「G7で最も低い水準」という点は、リリー側の主張として扱う。 一方、円安と物価上昇は、円建て薬価の実質価値を下げる方向に働く。 日本では円安が進んだ。円建ての薬価は、海外メーカーから見れば円安になるほどドルなどに換算した価値が下がる方向に働く。 物価も上昇した。消費者物価指数の総合指数は2023年平均の105.6から2025年平均には111.9へ上昇し、2026年7月も前年同月比1.9%上昇している。 もちろん、25%の薬価引き下げと円安、インフレを単純に足して「メーカーの収益が何%減った」と計算することはできない。実際の企業収益には卸価格や流通費、為替ヘッジなども関係する。それでも、3,848円から2,886円への名目上の値下げとは別に、円建て価格の外貨換算価値や国内での実質的な購買力も低下する方向に動いてきた。 メーカーが日本の薬価水準に強く反発する背景を考える材料にはなる。 ■薬価は「薬についた値札」ではない マンジャロの3年間を並べると、薬価制度の二つの役割が見えてくる。 2023年には、新薬としての有用性と外国価格を見て3,848円とした。2026年には、保険診療で市場が予想以上に拡大したため2,886円へ引き下げた。一見すると矛盾している。しかし、答えようとしている問いが違う。 発売時には「この新薬をいくらと評価するか」。 市場拡大後には「社会全体でこの薬にいくら支払うか」。 薬価は、薬そのものにつけた単純な値札ではない。新薬の価値を評価しながら、限られた医療費をどう配分するかを調整する政策価格である。 マンジャロの価格が発売時に引き上げられ、3年後にそれ以下まで下がったのは矛盾ではない。発売時には「この新薬をいくらと評価するか」を決め、市場拡大後には「社会全体でこの薬にいくら支払うか」を調整したからだ。 薬価とは、薬そのものの単純な値札ではない。新薬の価値と国民皆保険の負担を同時に調整する政策価格である。 医療保険の支出を抑えるために価格を厳しく調整すれば、企業側の予見可能性は下がる。一方、市場が予想以上に拡大しても価格を維持すれば、その費用は保険料や税金を通じて国民が負担する。 マンジャロの25%値下げが示したのは、「薬は安いほど良い」という単純な話ではない。今使う薬への負担を抑えることと、将来の新薬を日本に呼び込むことをどう両立するか。薬価制度はその難しいバランスを担っている。 九条丈二 独立研究者 【関連記事】 ■同じ100万円の治療なのに9.3万円か2.5万円か 健保組合の「付加給付」はいつまで続く? (九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63460012-20260904.html ■糖尿病治療薬マンジャロはなぜ「通販商品」のように見えるのか?オンライン診療と広告が変えた処方薬の入口 (九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63459993-20260904.html ■なぜ日本では眼鏡を25分で作れるのか?処方箋なしを支える「すみ分け」(九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63455736-20260902.html ■110万円の家賃を払う板野友美さんとヤクルト高橋奎二さんの判断が正しい理由。(中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/62674731-20250930.html ■世帯年収1560万円の共働き夫婦は、9540万円の湾岸タワーマンションを買えるのか? その1・生活費は800万? (中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/61186482-20240125.html ■プロフィール 九条丈二 独立研究者 医療制度、公衆衛生、科学研究を中心に、制度や組織がどのようなインセンティブによって動き、なぜ問題を修正できないことがあるのかを研究・執筆している。行政資料、統計、学術論文などの一次資料を用いた検証を重視し、医療政策、感染症対策、研究評価、AIと学術、医療安全、安全保障などを扱う。アゴラ、note等で論考を発表し、英文学術誌への投稿やPubPeerでの公開後査読にも取り組む。 公式サイト https://georgekujo.com アゴラ: https://agora-web.jp/archives/author/george_kujo note: https://note.com/g_kujo_ir @g_kujo_ir X: https://x.com/cavid19w @cavid19w ORCID: https://orcid.org/0009-0006-6864-0145 シェアーズカフェ・オンラインからのお知らせ ■シェアーズカフェ・オンラインは2014年から国内最大のポータルサイト・Yahoo!ニュースに掲載記事を配信しています ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家の書き手を募集しています。 ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家向けに執筆指導を行っています。 ■シェアーズカフェ・オンラインを運営するシェアーズカフェは住宅・保険・投資・家計管理・年金など、個人向けの相談・レッスンを提供しています。編集長で「保険を売らないFP」の中嶋が対応します。 |

