![]() 千葉県西部を車で走ると、道路の造りに大きな違いがあることに気づく。浦安や幕張など埋立地を中心に計画的に整備された地域では、幅の広い道路が目立つ。一方、今回の対策対象となる船橋、鎌ケ谷、松戸方面の内陸部では、幹線道路でも道幅が狭い。歩道が細い区間や歩道自体がない区間もあり、右折レーンのない交差点では、たった1台の右折待ちで後続車が詰まる場面が多くみられる。 熊谷俊人知事によれば、千葉県北西部には県内の主要渋滞箇所の約6割が集中している。首都圏全体の人、モノ、財の流れのボトルネックになっているのだ。 世間では、こうした渋滞は人口集中や道路不足の問題と考えられている。もちろん、それ自体は正しい。 しかし、社会制度・政策を研究する立場から見れば、もう一つの原因が見えてくる。千葉県北西部の渋滞は、単なる道路不足だけが原因ではない。実は、かつて16年間にわたって「土地収用制度」が止まった影響が、今も残っているのだ。 インフラは道路や線路だけでできているのではない。それを最後まで造り切る「制度」があって初めて完成する。 千葉県では1988年、収用委員会会長が襲撃された。この事件を受け、行政が強制的に土地を取得する判断を担う「収用委員会」は、2004年に再建されるまで約16年間も機能しなかった。 2026年7月、熊谷知事自身も、この機能停止が「県内の社会基盤整備の停滞」を招き、県民生活にも大きな損失をもたらしたと述べている(出典:「成田空港に関する四者協議会」の結果について 千葉県 2026/07/10)。 なぜなら、道路や鉄道はたとえ土地の9割を取得できたとしても、残り1割がなければ「完成」しないからだ。 土地を最後まで確保する制度が止まったとき、インフラ整備には何が起きるのだろうか。社会制度・政策研究者として、この問いを「千葉県北西部の渋滞」という具体的な現象から解き明かしたい。 ■道路を広げるにも土地がいる 道路整備というと、新しい道路を造る話を想像しがちだ。しかし実際には、既存の道路を広げるにも、歩道を設置するにも、右折レーンを追加するのにも土地が必要になる。 だが、道路や鉄道の難しいところは、途中まで完成しても十分には機能しないことだ。予定地の大部分を取得しても、たった一部の土地を取得できなければ、そこで工事は止まってしまう。鉄道なら、線路がつながらなければ1台の列車も走らせられない。 そこで必要になるのが「土地収用制度」である。 公共事業に必要な土地は、まず所有者との話し合いで取得を目指す。それでも合意できない場合、事業の公共性や補償内容などを審査した上で、最終的に強制取得の手続きへ進む。その判断を担うのが第三者機関である都道府県の「収用委員会」だ。 ここで重要なのは、実際に強制的な取得を何件行うかという数字だけではない。「話し合いがまとまらなくても、その先に法的な強制力を持つ制度が存在する」という事実そのものが、事業を最後まで完成させる強力な後ろ盾になることだ。 もしその選択肢が使えなければ、事業者は延々と平行線の交渉を続けるか、事業そのものを遅らせるしかなくなる。 ■成田空港問題が県全体の制度を止めた なぜ千葉県では、この制度が約16年間も機能しなくなったのか。 背景にあるのが成田空港問題である。 成田空港近くの「空と大地の歴史館」を訪れたことがある。展示を見ると、成田空港問題が単純な「国対地元住民」という構図ではなかったことが分かる。 成田国際空港会社によれば、1968年には条件付き賛成派4団体との合意によって、空港予定地の民有地の89%を取得していた。地元住民も一枚岩ではなかった。 反対運動はその後、外部の過激派も加わって激化した。 1988年には千葉県収用委員会会長が襲撃され、収用委員会は事実上機能を失った。再建されたのは2004年である。 成田空港闘争の是非を判定することが、ここでの目的ではない。 一つの空港を巡る激しい対立によって、千葉県全体で土地収用を担う制度が止まった。その影響は、空港とは直接関係のない社会基盤整備にも及んだ。 ■「ほとんど取得した」では完成できない 土地取得の難しさを具体的に示すのが東葉高速鉄道である。 現在の東葉高速線は西船橋―東葉勝田台の16.2kmを結ぶ。全線の普通運賃は640円と、東京メトロ(同等距離で260円程度)と比べても高額だ。もちろん経営条件が異なるため単純比較はできないが、東葉高速鉄道が重い建設負担を抱えて開業したことは確認できる。 では、なぜ建設費が膨らんだのか。会計検査院の資料によれば、当初は1993年4月開業の予定だったが、実際には1996年4月と、3年遅れた。 会計検査院は、地元との協議が整わなかったことを遅延の理由に挙げている。加えて、一部地権者との用地買収が施設完成間近になっても難航したことも理由だ。 工事が遅れた結果、建設費は1760億円から1988億円へ12%増えた。建設期間の長期化で建設利息も増え、最終的な施設の譲渡価格は2290億円から2948億円へ28%増加した。建設時期が地価高騰と重なったことも負担を大きくした。 つまり、用地取得の遅れは開業を遅らせるだけではない。その間にも土地価格、工事費、借入金の利息は動く。時間そのものがお金になる。そして、この16年間、県内の社会基盤整備は停滞した。 こうした構造は、決して過去の話ではない。 2026年6月末、成田空港の機能強化事業では、事業全体の用地確保率が90.4%まで進んでいる。 それでも問題は解決していない。 千葉県によれば、今後契約が見込まれる土地が約4.8%ある。一方、度重なる訪問などを行っても解決の糸口が見いだせていない土地も約4.8%残っている。 このため、国、千葉県、地元自治体、成田国際空港会社による四者協議会は、任意取得を続けながらC滑走路区域で土地収用制度を活用することを確認した。そして、それを「やむを得ないもの」とした。 1968年には民有地の89%を取得していた。2026年には事業全体で90.4%まで確保している。 それでも土地収用制度が必要になる。 インフラでは「ほとんどの土地を取得した」ことと「完成できる」ことは同じではない。 ■用地取得の条件で事業の進み方は変わる 千葉県北西部の渋滞には、人口増加、既成市街地の密集、道路計画、財政など複数の原因がある。 収用委員会の停止だけで、現在の渋滞を説明することはできない。 ただ、同じ千葉県内のインフラを比べると興味深い違いが見える。 京葉線は東京湾岸の埋立地を通る。千葉都市モノレールは道路空間上の高架を多く利用する。つくばエクスプレスの千葉県区間では、沿線の土地区画整理と一体的に用地が確保された。 多数の既存地権者から民有地を一筆ずつ買い進める事業とは、土地取得の条件が異なる。 東葉高速線では、その民有地取得が実際に難航した。用地取得の難航は、開業を3年遅らせ、建設費を増大させた。道路整備でも、用地取得の遅れは事業の遅れに直結する。 これだけで、収用委員会の停止がすべての事業遅延を引き起こしたと証明できるわけではない。 ただ、人口や県の財政力だけを原因とするなら、説明できないことがある。同じ県内で用地取得の条件によって事業経過に差が生じているのだ。 土地をどのように確保できるかが、インフラ整備の速度と費用を左右する。 熊谷知事自身が、収用委員会の機能停止によって社会基盤整備が停滞したと述べている。東葉高速鉄道の開業3年遅れと建設費増は、その一例だ。 ■制度が止まるコストも記録すべきだ 収用委員会は2004年に再建された。それなら20年以上たった現在の道路事情とは関係がない、と思う人もいるだろう。 インフラ整備では、制度を再開した瞬間に失われた時間を取り戻すことはできない。 道路や鉄道は、計画を決め、住民と調整し、土地を取得し、設計し、予算を確保して工事を行う。完成まで十年単位の時間がかかる事業もある。 16年間の空白は、制度を再建した翌日に消えるものではない。 今後は、収用委員会が「存在しているか」だけを見るのでは不十分だ。 用地取得に何年かかっているのか。取得の遅れで事業費や利息がどれだけ増えたのか。完成時期がどれだけ後ろ倒しになったのか。 制度が機能しないことによって生じる時間と費用も、公共事業のコストとして可視化する必要がある。 土地収用は個人の財産権に強く関わる制度であり、慎重な運用が欠かせない。 同時に、制度を使えない状態にも社会的なコストがある。渋滞による損失は、通勤時間の増加や物流コストの上昇として、県民生活に直接跳ね返る。 現在、千葉県はETC2.0などのデータを使い、北西部の渋滞対策を短期、中長期の両面から進めようとしている。県の重点渋滞エリアは、船橋我孫子線と国道464号を中心とする地域だ。 目の前の交差点だけでなく、なぜ道路がこの形になったのかまで遡ると、普段は見えない制度の役割が見えてくる。 インフラを最後まで造り切るのは、道路や線路ではない。制度である。 土地の9割を取得しても、インフラは9割完成するわけではない。 制度が止まった時間も無料ではない。だからこそ、渋滞対策は道路整備と同時に、制度を止めない仕組みづくりまで含めて進めるべきだ。 九条丈二 独立研究者 【関連記事】 ■厚労省予算36.6兆円だけでは見えない 社会保障144兆円はなぜ一般会計より大きいのか(九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63477208-20260912.html ■糖尿病治療薬マンジャロはなぜ発売時に値上げされ、3年後に25%値下げされたのか? 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