![]() 9割の過失を認めさせて、なぜ支払いは10割にならなかったのか。この問いに、身近な例から考えてみたい。 リフォームを頼んで仕上がりがひどい状態だったとする。裁判で工務店に9割の非があると認めさせても、支払った金額の9割は戻ってこない。多くの人は「戻ってくるはずだ」と考えるが、契約書に書かれた一文によって、戻ってくる金額はそれよりずっと少なくなる。 文化シヤッターと日本IBMの間で起きていたのは、まさにこの構造だった。原因は、契約書に盛り込まれていた「責任制限条項」にある。なぜ、裁判所が認める責任の重さと、実際に支払われる賠償額は一致しないのか。要件定義から実装・運用まで手がけるシステム開発会社を経営する立場から、契約書の中に潜むこの仕組みについて考えてみたい。 ■約23億円の損害、9割の過失、でも支払いは約20億円 裁判所が示した数字は、次の3つに整理できる。 まず、裁判所は約23億円の損害を認定した。次に、過失割合を審理した結果、その9割が日本IBM側の責任だと判断された。ここまでなら、約20億9千万円が支払われるはずだ。ところが最終的に命じられた支払いは、約20億円にとどまった。 差額はわずかに見える。だが重要なのは金額の大小ではなく、「裁判所に9割の非を認めさせても、その9割分がそのまま支払われることはない」という事実そのものだ。 原因は、契約書にあらかじめ盛り込まれていた「責任制限条項」だ。これは、損害賠償の金額に上限を設ける取り決めのことで、今回のケースでは、実際に支払われた開発費の額が上限として機能した。裁判所がどれだけ大きな過失を認めても、支払いはこの上限で頭打ちになる。 ■裁判で勝っても、契約書がそれを上回るとき 「相手に非があると裁判所が認めたのなら、その分は当然支払われるべきだ」というのが、多くの人の感覚だろう。損害を与えた側が責任を取るのは当然、という考え方だ。 だが私は、この感覚と現実の間には、意図的に作られたズレがあると考えている。契約書に責任制限条項があれば、判決でどれだけ大きな過失が認められても、上限を超えた分は請求できない。これは、契約という制度の設計そのものに組み込まれた仕組みだ。 誤解してほしくないのは、この条項自体が「受注者側の逃げ」だという話ではないということだ。もし仕事を引き受ける側が、いくらでも青天井の賠償責任を負わなければならないとしたら、そのリスクの分だけ、見積もりの金額は跳ね上がる。責任に上限を設けることは、引き受けるリスクの範囲を明確にし、価格を現実的な水準に抑えるための、合理的な仕組みでもある。 問題は、この仕組みの存在を、多くの発注者が「何かが起きるまで意識していない」ことにある。契約書に書かれているのに、読んでいるようで読めていない一文。それが、実際にトラブルが起きた瞬間、静かに効いてくる。 ■リフォームやフリーランスへの発注にも、同じ構造がある 「損害賠償の上限を、契約金額までとする」という条項は、システム開発のような大きな契約に限った話ではない。「本契約に基づく委託料相当額を上限として、賠償する」という定め方は、IT関連の契約実務で一般的に使われている条項だ。(参照・「開発委託契約における損害賠償限定条項とその有効性」弁護士法人クラフトマン) この条項の有効性は、実際にこれまでも複数の裁判で争われてきた。2014年には、ECサイトの脆弱性による情報流出事件で、裁判所は「ベンダーに重過失がある場合には条項を適用しない」と判断した。一方2019年の別の訴訟(こちらも日本IBMが当事者だが、文化シヤッターの事件とは別件)では、発注者側が「対等な交渉力がなかった」と主張したものの、裁判所はこれを退け、条項の適用を認めている。文化シヤッターの事件は、こうした争いの延長線上にある一つの事例にすぎない。 冒頭の問いに戻ろう。リフォームを頼んで仕上がりがひどく、裁判で工務店の非を認めさせたとする。それでも、契約書に「賠償額は工事代金を上限とする」と書かれていれば、被害の全額は取り戻せない。 これは、フリーランスへの発注でも同じだ。成果物に重大な不備があり、それによって大きな損害が生じたとしても、契約書に責任の上限が定められていれば、回収できる金額はそこで頭打ちになる。 ■「上限がいくらか」を見れば、契約の見え方が変わる ここで、「それでは受注者側に有利すぎるのではないか」という疑問が浮かぶかもしれない。 だが実際には、逆の側面もある。無制限の責任を求めれば求めるほど、その分のリスクは価格に上乗せされる。上限のない契約は、見積もりの段階で発注者自身の負担を重くする。責任の上限をどこに置くかは、価格とリスクのバランスを取るための交渉事項であり、最初から一方的に不利な仕組みというわけではない。 だからこそ、仕事を頼む側が本当に確認すべきなのは、「もし何か起きたとき、裁判で勝てるかどうか」ではない。「契約書に書かれた上限が、万一の損害に見合っているかどうか」だ。この視点を持っているかどうかで、同じ契約書の見え方はまったく変わってくる。 文化シヤッターの裁判は、大企業同士の特殊な争いに見えるかもしれない。しかし、そこで起きていたことの本質は、私たちが日常的に交わしている契約の多くに共通している。 サインする前の段階で、上限の金額と、想定される最悪のケースを突き合わせておく。これができれば、トラブルが起きてから初めて条項の存在に気づく事態は避けられる。 ただし、これは口で言うほど簡単ではない。工事やシステム開発が失敗したとき、損害が最悪どこまで膨らみうるかを見積もるには、その分野の技術的なリスクを理解している必要がある。契約書の一文が実際にどこまで賠償の範囲を制限するのかも、法律の専門知識がなければ正確には読み解けない。 つまり、この「契約前の突き合わせ」こそが、当事者だけでは実行しづらい作業なのだ。 だからこそ、契約を結ぶ前に、発注側にもベンダー側にも属さない第三者の目を一度入れることには意味がある。医療の世界でセカンドオピニオンが当たり前になったのと同じ発想だ。 裁判で勝つことは、失敗の埋め合わせにはならない。9割の過失を認めさせても、戻ってくる金額は上限を超えない。本当の備えは、勝訴した後にあるのではなく、契約書にサインする前、しかも一人だけで判断しない段階にある。 久保田一 株式会社VERVE代表取締役 【関連記事】 ■契約書の一文で既払金の返還請求20億から11億に減額。システム開発は訴訟になった時点で負けと言えるワケ (久保田一 経営者) https://sharescafe.net/63460037-20260904.html ■システム開発の契約内容、ちゃんと理解できていますか?認識違いで追加費用1200万も、防ぐ簡単な方法は (久保田一 エンジニア) https://sharescafe.net/63378932-20260730.html ■大企業でも頻発するシステム開発の「爆死」―背景にあるIT業界の無責任な構造とは? (久保田一 経営者) https://sharescafe.net/63338517-20260713.html ■110万円の家賃を払う板野友美さんとヤクルト高橋奎二さんの判断が正しい理由。(中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/62674731-20250930.html ■世帯年収1560万円の共働き夫婦は、9540万円の湾岸タワーマンションを買えるのか? その1・生活費は800万? (中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/61186482-20240125.html ■プロフィール 久保田一 株式会社VERVE代表取締役 ![]() 公式サイト https://verve-inc.jp/ X https://x.com/vervekubo @vervekubo note https://note.com/innovations_hk @innovations_hk シェアーズカフェ・オンラインからのお知らせ ■シェアーズカフェ・オンラインは2014年から国内最大のポータルサイト・Yahoo!ニュースに掲載記事を配信しています ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家の書き手を募集しています。 ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家向けに執筆指導を行っています。 ■シェアーズカフェ・オンラインを運営するシェアーズカフェは住宅・保険・投資・家計管理・年金など、個人向けの相談・レッスンを提供しています。編集長で「保険を売らないFP」の中嶋が対応します。 |


