![]() 海外では、自分の検査結果や診療記録をスマートフォンや患者向けサイトから確認できる仕組みが広がっています。一方、日本では自分の診療情報を見るために、病院へ開示を申し込み、本人確認などの手続きを経る必要があります。病院によっては、数週間待たされることもあります。 ここで素朴な疑問が浮かびます。カルテは、いったい誰のものなのでしょうか。 一般には「カルテは病院や医師が作成し、保管するもの」と考えられています。しかし患者から見れば、そこに書かれているのは自分の病歴、検査結果、処方内容、治療経過です。しかも個人情報保護委員会は「診療録全体が患者の保有個人データ」であると明記しています。 社会制度・政策を研究する立場から言えば、これは電子カルテの性能より、患者の権利をどう実装するかという制度設計の問題です。日本では患者に診療情報へのアクセスが認められている一方、その行使方法はいまも「必要になった患者が開示を申し込む」仕組みに大きく依存しています。 この記事では「カルテは誰のものか」という問いから、日本の患者アクセスの仕組み、海外との違い、そして今進められている電子カルテ情報共有サービスで何が変わろうとしているのかを考えます。 ■見る権利はある。それでも「開示請求」が必要 まず確認しておきたいのは、日本で患者にカルテを見る権利が認められていないわけではないことです。 個人情報保護委員会は、診療録には患者についての検査結果だけでなく、医師による判断や評価も含まれるため、患者と医師双方の個人情報という二面性を持つ部分があると説明しています。 しかし同時に、「診療録全体が患者の保有個人データ」であり、その二面性だけを理由に、患者本人からの開示請求を拒むことはできないとしています。開示方法には書面だけでなく、電磁的記録による提供も含まれます。 つまり制度上、「カルテは医師の記録だから患者には見せなくてよい」という扱いにはなっていません。それでも実際の患者体験は、普段から自分の情報を見るというより、必要になった際に病院へ「開示請求」を行う形が中心です。 順天堂大学浦安病院では、申請書を提出してから受け取りまで4週間前後かかります。開示費用は3300円、白黒コピーは1枚11円、画像などを収録したCDは2200円です。しかも、手続きは申込も受取もすべて対面。支払いは現金のみ。交付は申請者のみ。対象期間は保存期間に準じて5年間です。 紙カルテしかなかった時代であれば、病院に保管された原本からコピーを作り、本人確認をした上で渡す仕組みには合理性がありました。しかし現在は、多くの診療情報が最初から電子データとして作られています。情報は電子化されたのに、患者から見たアクセス方法には紙カルテ時代の発想が残っている。ここが問題ではないでしょうか。 ■米国では電子データなら電子コピーを求められる 米国では、医療情報の保護と利用を定めたHIPAA(医療保険の携行性と責任に関する法律)のプライバシールールにより、一定の例外を除き、患者は自分に関する医療情報へアクセスする権利を持っています。 電子的に保存されている医療情報については、患者は原則として電子コピーを求めることができます。希望した形式で容易に作成できる場合はその形式で、難しい場合でも双方が合意できる読み取り可能な電子形式で提供することが求められています。 もちろん、米国でも本人確認や請求手続きが一切ないわけではありません。しかし、患者自身が医療情報へアクセスし、それを取得して使うことを制度の前提に置いています。 EUも同じ方向へ進んでいます。EU域内における患者の医療データの扱いについて、共通のルールを定めた法的枠組み、European Health Data Space(欧州保健データスペース・EHDS)では、患者が自分の電子医療情報へ迅速かつ無料でアクセスし、医療従事者と共有できる仕組みを整備しています。 さらに、誰が自分のデータへアクセスしたかを確認する権利、誤りの訂正を求める権利、一部の情報へのアクセスを制限する権利も制度化されます。 ただし、EHDSはすべてが既に実装済みというわけではありません。規則は2025年に発効しましたが、主要機能は2029年以降、段階的に適用されます。 「海外なら何でも即座にスマホで見られる、日本だけ見られない」というほど単純ではありませんが、海外では「必要なときにコピーを請求する」ことを基本とする仕組みから、「本人が必要なときにアクセスして使う」仕組みへ移っているといえます。 ■「カルテは誰のものか」を所有権だけで考えない ここで最初の問いに戻ります。カルテは誰のものなのでしょうか。「病院のものだ、患者のものだ」と二択で考えられる問題でもありません。 医療機関には診療録を作成し、安全に保存・管理する責任があります。カルテには患者から聞き取った情報だけでなく、医師の診断や評価、治療方針なども含まれています。一方で、個人情報保護委員会が明記している通り、診療録全体は患者の保有個人データでもあります。 したがって重要なのは、モノとしてのカルテの所有権より、そこに記録された自分の診療情報へ患者がどこまでアクセスできるのかです。 患者本人が自分の検査結果を確認できるか。 誤りがあれば訂正を求められるか。 別の医療機関を受診するとき、必要な情報を引き継げるか。 そして、自分の意思で必要な医療者へ共有できるか。 電子カルテ時代に問われるべきなのはこちらです。 さらに興味深いのは、診療情報が患者本人の診療だけに使われるとは限らないことです。一定のルールの下で、診療情報など既に存在する情報は医学研究にも利用され得ます。日本の「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」も、こうした既存情報を用いる研究を想定しています。同指針は2026年8月27日に改正され、12月1日から改正版が適用されます。 症例報告についても、何でも自由に公表できるわけではありません。ICMJE(国際医学雑誌編集者委員会)は、患者を特定し得る情報を掲載する場合には、書面による出版同意を求めています。 それでも考えさせられる非対称性があります。患者本人は自分の診療情報を見るために開示を申し込み、待ち、場合によっては費用を払う。一方、その診療情報は一定のルールの下で研究にも使われ得る。 もちろん、患者アクセスと研究利用は別の制度です。しかしこの違いも、「カルテは誰のための情報なのか」を考える材料になります。 ■すべてを即時公開すればよいわけではない もっとも、患者アクセスを広げることには慎重論もあります。医療情報には、告知前の検査結果や精神科領域の記録、第三者に関する情報など、極めて慎重な取り扱いを要する情報もあります。実際、個人情報保護法上も、一定の場合には保有個人データの全部または一部を開示しないことが認められています。 しかし、例外が必要であることと、患者アクセス全体を「病院へ申し込んでコピーを受け取る」方式に依存させ続けることは別問題です。 原則として本人がアクセスでき、慎重な取り扱いが必要な情報について例外を設ける。電子化された医療情報なら、そのような制度設計も可能です。 ■日本も「本人アクセス型」へ動き始めた 実は日本も、「本人アクセス型」の方向へと動き始めています。 厚生労働省が整備を進める電子カルテ情報共有サービスでは、患者の臨床情報を全国の医療機関などだけでなく、本人も閲覧できる仕組みが示されています。患者サマリーについても本人が閲覧できるサービスが予定されています。 9月10日に開催された厚労省の医療等情報利活用ワーキンググループでも、「電子カルテ情報共有サービスに関する検討事項」が議題となりました。 つまり、この記事を書いている現在も制度は動いているのです。 これは単なる「電子カルテ普及策」ではありません。これまで病院ごとに保管されてきた診療情報について、患者本人もアクセスできる情報基盤へ変えていく動きでもあります。 今後、日本の医療DXを「電子カルテを何%の病院に導入したか」だけで評価するべきではありません。 患者本人が自分の情報をどこまで確認できるのか。 病院を変わっても必要な情報を引き継げるのか。 自分の治療について判断するために、その情報を実際に使えるのか。 そこまで変わって初めて、患者にとっての医療DXと言えるのではないでしょうか。 日本で本当に変えるべきなのは、紙を画面に置き換えることではありません。患者を「カルテの開示をお願いする人」から、「自分の診療情報へアクセスできる人」へ変えることなのです。 九条丈二 独立研究者 【関連記事】 ■0歳児保育に月47万円 家庭保育に「月20万円」を配る選択肢も比較すべきでは? (九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63506217-20260926.html ■厚労省予算36.6兆円だけでは見えない 社会保障144兆円はなぜ一般会計より大きいのか(九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63477208-20260912.html ■糖尿病治療薬マンジャロはなぜ発売時に値上げされ、3年後に25%値下げされたのか? (九条丈二 社会制度・政策研究者) https://sharescafe.net/63463410-20260906.html ■110万円の家賃を払う板野友美さんとヤクルト高橋奎二さんの判断が正しい理由。(中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/62674731-20250930.html ■世帯年収1560万円の共働き夫婦は、9540万円の湾岸タワーマンションを買えるのか? その1・生活費は800万? (中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー) https://sharescafe.net/61186482-20240125.html ■プロフィール 九条丈二 独立研究者 医療制度、公衆衛生、科学研究を中心に、制度や組織がどのようなインセンティブによって動き、なぜ問題を修正できないことがあるのかを研究・執筆している。行政資料、統計、学術論文などの一次資料を用いた検証を重視し、医療政策、感染症対策、研究評価、AIと学術、医療安全、安全保障などを扱う。アゴラ、note等で論考を発表し、英文学術誌への投稿やPubPeerでの公開後査読にも取り組む。 公式サイト https://georgekujo.com アゴラ: https://agora-web.jp/archives/author/george_kujo note: https://note.com/g_kujo_ir @g_kujo_ir X: https://x.com/cavid19w @cavid19w ORCID: https://orcid.org/0009-0006-6864-0145 シェアーズカフェ・オンラインからのお知らせ ■シェアーズカフェ・オンラインは2014年から国内最大のポータルサイト・Yahoo!ニュースに掲載記事を配信しています ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家の書き手を募集しています。 ■シェアーズカフェ・オンラインは士業・専門家向けに執筆指導を行っています。 ■シェアーズカフェ・オンラインを運営するシェアーズカフェは住宅・保険・投資・家計管理・年金など、個人向けの相談・レッスンを提供しています。編集長で「保険を売らないFP」の中嶋が対応します。 |

